原文:Flower Bombの「ADULTHOOD IS A TRAP - Anti-Natalism, Youth Liberation, and a Refusal to Surrender(2023)」、改行は読みやすさを優先した。
もし人生を、冒険と感情、経験が自由に脈打つ心臓の鼓動だと捉えるなら、大人になるということは、まるで詰まった動脈のようなものだ。
それは、欲望と想像力のエモーショナルな便秘である。大人とは、遊びよりも仕事を優先するという社会的任務を与えられた超自我に似ており、それは遠い昔の若さと自由を懐かしむ感傷を生み出す。
かつての私は、完全に「大人」という亡霊たちに取り憑かれていた時期があった。日々の生活は、様々な社会関係の複雑な網の目であり、その根底には主人/奴隷の精神構造が横たわっていた。賃金で請求書を払ったあと、余ったわずかな金で流行のモノを買い集める——まるで自分の人生をコントロールしていると錯覚するための奇妙な霊的衝動のように。
働く、食べる、買う、眠る。また繰り返す。社会の目には、私は普通の責任ある大人に見えていた。だが私にとって、その生き方は、墓場が姿を変えたものにすぎなかった。
自分自身を愛するということ……
もし自己愛が、「より良い」仕事を見つけることや、教会に通うこと、あるいは物質を積み上げて〈何か違うもの〉を求める衝動を満たすこと以上の意味を持つとしたらどうだろうか?
「不幸は仲間を欲しがる」という言葉が、実に的確だと気づくようになった。無限の旅や冒険に喜びを見出す者が一人いれば、そうした生き方に対して即座に最悪の印象を抱く者がその三倍はいる。
社会への同化と順応によって与えられる安堵感によって、多くの人々は定住的な生活との自分のアイデンティティを関連づけるようになる。
このアイデンティティや関係性の基盤は多くの場合、安心感であり、ゆえに良いものとされている。それが、日々の単調さと賃金奴隷の苦しみを経験していながらも、である。
この視点からすれば、大人の常識から外れたあらゆる生き方は、多くの人にとって危険で無責任なものに映るのだということが、私にもわかるようになった。私は気づいた。自己愛は、常識的なポジティブさのイメージと必ずしも一致するわけではないのだと。最終的に、どんな生活変革における「ポジティブさ」も、それは常に主観的なものだ。
仕事を持ち、家やアパートを所有・賃貸し、結婚し、子どもを持つといった定住生活をすべて捨て去ることは、ある人々にとってはまさに無責任とみなされるだろう。
だが他の人々にとっては、それは「大人になること」を拒否することで得られる自由を追求する個人的な道なのだ。
「大人になれ」という社会的圧力は、若さへの全般的な敵意と呼応している。
若さはしばしば(そして実際に)権威への従順を欠くものとして認識され、そのために社会的抑圧の対象となる。若者たちが法的に自律を奪われ、権威による指導と規律が必要な存在とされるのは、このためである。
反抗的で奔放な遊びの本能を早期に抑圧すべきだと社会の一般的合意は主張しているのだ。大人になることとは、自らの若さを抑えつけた結果として、当然たどり着くべき規範的ゴールとされている。
大人とは、社会秩序を維持するための道徳や価値観を、個人の責任において守り抜く最前線に立たされた存在としても理解できる。
ひとたびある年齢に達すれば、あらゆる若さゆえの振る舞いや欲望、本能は、遠い記憶の墓場へと葬られているべきだとされる。
だが、それでは足りない……。
大人への変容が完了すると、人は次にさらなる若者を生み出し、やがてそれをまた大人に育て上げることを期待される。すべての大人は、文化や伝統、地域社会や宗教、愛や家族といった社会的圧力に包まれた「共通善common good」の名のもとに、子どもを持つことを当然で必要なことと受け入れるよう、集団的に迫られる。
個々の大人は、産業社会を自らの賃金労働によって維持するだけでなく、未来の労働者を生産するという役割も担わされる。そしてもちろん、子どもを産むことには社会的報酬が伴う。子を持つ者には、家族や友人からの称賛というかたちで、社会的地位や「まともさ」の印が与えられるのだ。
だからこそ、自分を愛し、自分を良くすることが「子どもを持つこと」と結びつけられるのも無理はない。人生に意味や希望を与えるため、あるいは関係性の不安定さを埋めるために子どもを持つという動機もあるだろう。しかし実際のところ、こうした動機で子どもを迎えても、根本的な問題は解決されるどころか、むしろ複雑化することが多い。問題の核心から目を逸らし、自分自身のケアを他者のケアにすり替えることで、内的課題はなおざりにされる。
では、もし子どもを持たないという選択をしたら、どうなるだろう?
父権制が前提とされる社会制度と慣習の中で、生まれた瞬間から「女性」として分類される者たちは、出生主義的な圧力の矢面に立たされる。だからこそ、自分自身のケアと自由を優先するという選択は、勇気ある抵抗の表明となる。多くの人々が「子どもを持たないことは無責任で自己中心的だ」と非難する一方で、それを「自己を優先する責任ある態度」として捉える人々も確かに存在する。
では自己愛とは何か? それは、他者の人生を引き受けることなく、自らの人生を最大限に楽しむ自由を確保することではないのか? 若さゆえの遊び心、夢、想像力――それらを「過去の思い出」という埃まみれの本棚に閉じ込めず、今なお生き続けるものとして大切にすることではないか?
「子どもと一緒に素晴らしい思い出を作ればいいじゃないか」という人もいるだろう。だがそれに対して私はこう言いたい――「他人のために自営という形で働くくらいなら、自分を甘やかして生きるほうがましだと考える者がいても当然だ」と。
他者を愛するということ……
「反出生主義(anti-natalist)」という言葉をずいぶん前に知ったが、それよりはるか前から、私は子を持たないという決断をしていた。自己放縦の甘美な悦楽を求めるという個人的な欲望もあったが、それ以上に、自己と自己の発展をケアする身でありながら、同時に子どものケアをするというのは、無責任だと感じたのだ。
さらに言えば、社会の自由は幻想に過ぎず、生まれてきた子どもは即座に、社会的同調のための精神的・身体的・感情的な条件付けという牢獄に投げ込まれるだろうという確信もあった。そもそもこの世界で、私自身すら、望むままに自由に生きることができない(それが可能だとすれば、反抗を通じてのみである)というのに、なぜ子どもをこの世界に引きずり込む意味があるだろうか。
産業社会は「自由」という概念を極端に狭い限界に封じ込めた。その枠内で私に許されている「自由」とは、衝動的な消費者になる自由、権力者に媚びることを誇りとする自由、安価な労働力としてボスに搾取される自由——そうした従属的存在になる自由でしかない。
もし私が、子どもを心から愛することができるなら、どうしてその子を、この常態化された残虐のなかに投げ込むことができるだろうか?
人々の大半は、自分たちの日常に充満している戦争状態にまったく無自覚である。制度的・社会的権力を握る者たちは歴史的に、常に「戦争」とは何かを彼らの視点で定義し――それに基づく世界観を人々に内面化させてきた。だが、私にとって「戦争」とは、単に軍隊同士の衝突ではない。
私は問いたい——この血とジェノサイドによって征服された土地の上で、貧困、ホームレス状態、警察暴力、賃金奴隷制、制度化された差別が日々の現実として存在し続けているとき、「人生」とは何を意味するのか? こうした飼い慣らされた植民地的・産業的「人生」が、個々人に対する実際の戦争でなくて何なのか?
そして——もしこのひどい現実を直視する者がいるとすれば、なぜなお、その死の行進に新たな命を差し出すというかたちで加担し続けるのか?
この現実をある程度理解しているがゆえに、むしろ子どもを産み育て、「進歩的価値観」を体現させようとする者もいる。そうした者たち(リベラルも急進派も含む)は、善意に満ちてはいるものの、ある重大な錯誤を見落としている。それは、子どもの思考や決断に対する所有権を当然のように前提しているという点である。
これは一般的な傾向でもある。若者は批判的思考能力を欠いていると見なされており、だからこそ正しい価値観を注入する必要があるとされているのだ。たしかに子どもを望まれる姿に育てることは不可能ではない。しかしそれは、しばしば反発や敵意、あるいは完全な反乱を招く。思想が内発的に受容されたのではなく、押しつけられたものであったと感じたのだから、そうなるのは当然のことだ。
出生が外的圧力によってではなく、本人の内から発された欲望によって決定される場合もある。だが、その動機もまた支配的であることが少なくない。他者を自分の支配下に置きたいという欲望、あるいは自己の生の空虚を、他者の人生を通じて埋め合わせたいという欲望。そのような「上から下へ」の権力構造は極めて一般的であり、そしてそれが若者に対する抑圧の限界というわけでもない。
一般に、子どもは生まれたその瞬間から、性別の割り当て、割礼、洗礼、その他あらゆる宗教的儀式・文化的慣習・伝統的実践に投げ込まれる。そうした一連の手続きが何であるか、なぜなされるのかという理解を形成する余地もなく、新たな命は番号を割り当てられ、国家権力によって管理されることになる。
歩行が可能になれば、すぐさま「教育=産業」複合体に組み込まれ、社会的同調の訓練を受ける。自然な好奇心や生き生きとした衝動を抑圧できなければ、非行と見なされ、懲罰を受ける。それでもなお抵抗をやめない子どもには、精神薬という名の脳神経を操作する薬剤が投与され、精神的・肉体的服従が強要される。世界を理解するうえでもっとも重要な最初の12年間において、彼らは四角く区切られた教室のなかに閉じ込められ、整然と並んだ机に座らされ、蛍光灯の下で、単一の教員から一方的に提供される情報を暗記させられる。世界と実際に関わることによってではなく、抽象化された「情報」の丸暗記によって学ばされるのだ。
若年期における想像力と人格形成の決定的な時間は、あらゆる権威によって要求される感情労働と強制によって、無数の銃弾のように貫かれていく。抵抗には必ず罰が伴い、それは恐怖を精密に刷り込むように設計されている。そして遠くから、大人社会のマントラが囁く——「早く大人になって、働け」。
もちろん、子を産み育てることで奇跡的で謎めいた幸福がもたらされることもある。だが私は、この監獄のような世界において、子どもに自由と安全を保証できるとは到底思えない。いま私がこの文章を書いているまさにこの瞬間にも、環境破壊は破滅的な規模で進行しており、その未来に子どもを投げ込む気にはなれない。
だから私は自分自身のためだけでなく、他者への愛からも、「大人」という配役を拒否する。産業社会を満足させるために生殖するという任務を拒否し、文明化された地獄にもう一人の命を投げ込むことも拒否する。
この視点からすれば、この反出生主義的アナーキーとは、社会的支配や産業的制圧への戦争への個的な寄与であると同時に、「若者の解放」の名において大人社会全体への戦争を布告する行為でもあると言えよう。
ドロップアウトして遊ぶこと……
……不可能だと言えば、それは嘘になる。そして、実際にそれをやってのけた者に出会ったことがないと言えば、それもまた嘘になる。さらに正直になれというなら、今後もそうした者たちは現れ続けるだろう、と言わねばならない。社会がどう思おうとも、すべての学校、精神施設、少年院が、すべての若者を統制して閉じ込めておけるわけではないのだ。そして、社会的な圧力、特権、経済的安定という魅力が存在するにもかかわらず、「大人であること」という牢獄からの脱走は起こる。
ときに我々は偶然出会い、戦争と遊び、愛と憎しみの物語を語り合う——列車置き場で、あるいは高架下の焚き火のまわりで。そしてときには、火と割れたガラスの音によって解放された空間で出会う——そこは、警察署が一つまるごとあったとしても、支配や抑圧の手を差し伸べることができないような場所であり、何か新しいもの、何か違法なもの――ときに危険なものへの欲望がむき出しになる場である。
無論、こうしたふるまいは非行少年や「道を踏み外した」若者から予想される種類のものだろう。だが「大人」がこうした行動を取れば、世間は言う——「なんて恐ろしい! 精神の病か? 薬物か? この〈子どもじみた〉行動には何かしらの説明がつくはずだ!」と。
社会契約なるものが内面化され、合法的な服従が当然とされるなかで、大人と「国家」との関係は恐怖に支配される。そして、制度がある動物――つまり、社会によって極限まで追いやられた個体――を追い詰めたとき、野性的な反応が起こる。突如として噴き出す、若さに満ちた叛乱の爆発である。
ときに、親と子のあいだに形成された服従の契約が破棄されるとき、それは激しい衝突によってではなく、ただの〈穏やかな好奇心〉によってであることもある。『ウォームズリー・コモンのギャング団』が、紙幣の詰まったマットレスに火を放ったとき、その動機の一つは、ただ何か新しく、わくわくするようなものへの渇望だったのかもしれない。金の支配という鎮静剤の効力を超えて、感情の領域を探索しようとする試みだったのかもしれない。だが、そんなことは知りようがない。
若さという概念は、結局のところ各個人にとって主観的なものであり、実際、働いているときに自分の若さを最も強く感じるという人もいるかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスの文脈で言えば、(カテゴライズされた集団としての)「若者たち」に、私が彼らを代表する必要などまったくない。それは私が政治家に自分を代表してもらう必要がないのと同じことだ。私は数多くの若者たちが自らを表現するのを見てきた——それは文章によってであったり、世界中で燃やされた学校の灰の中においてであったり。そしてまた、ある若者たちはこのテキストで提示された反権威的な思想になど、まったく関心がないかもしれない。
だが、私の考える「若さ」は、アイデンティティ・ポリティクスに限定されるものではないし、「若者たち」を一枚岩的な存在として扱ってもいない。私が若者たちと言うとき、それは法的に若者とされる人々のみに限らない。大人の優位性を拒絶し、大人であることの狭苦しい檻を超えて、自らの最も野性的な夢を追い求めることを選んだ、反権威的な「大人たち」もまた含んでいる。
もしこのテキストの読者が、若さとは非・大人としての在り方――それが大人性への抵抗を伴うものであれ、そうでないものであれ――を意味すると理解するならば、私はこのテキストがひとつの橋として読まれることを願う。それは反出生主義者と若者解放論者とを結ぶ橋であり、世界への戦争が交差する接点としての橋であり、産業社会を悪戯のための巨大な遊び場として見下ろすための展望台である。
私が「遊び」と言うとき、それはまさに文字どおりの意味:個人的な楽しみのための活動である。そしてこの語とその定義が、ある特定の年齢層に限定されて語られがちであるとしても、私は言いたい——そんなものクソくらえだ! 労働を神聖視するこの社会に対して「暴れだす」という、あの胸が躍るような体験こそ、「遊び」という定義にもっともふさわしい。
生の鮮やかさが、絶え間ない労働と義務によって鈍らされてしまうとき、人生は死に向かう芸術作品としてしか存在できなくなる。
だから、いつだって、どこかで、どういうかたちであれ――(決して遅すぎることはない!)、野生的な者たちはドロップアウトし、遊びはじめる……。
若さの力よ永遠なれ――その力を、決してだれも手放すことのないように!
Flower Bombは、ポスト・レフト系アナーキズムやニヒリズムの潮流に身を置く現代の急進的アナーキスト作家。個人主義、反アイデンティティ政治、反ナタリズム、反社会といったテーマを扱い、体制的な価値観や道徳への根源的な拒絶を文章によって表現する。The Anarchist Libraryにて著作多数。