原文:If You Were King(2017)
――たしかに、世界はかなりひどい状況にあります。
でも、もしあなたがこの世界を統べる王に選ばれたとしたら、どれほど素晴らしいことができるでしょうか。
無限の権力を与えられて、世の中を正すことができたら。
想像してみてください。
貧しい人々に食事を与え、ホームレスに住まいを提供し、悪を打ち倒し、無実の人を守ることができます。
世界を救うことができるのです!
人々はあなたを愛し、感謝するでしょう。
もしあなたにその権力さえあれば、すべてを公平で、正しく、安全なものに変えることができるはずです。
まさに理想郷(ユートピア)を築くことができるのです。
ええと、いいえ、あなたにはできません。
たとえそうしようと努力し、善意をもって臨んだとしても、あなたの壮大で気高い計画はすぐに崩れはじめ、やがてあなた自身が専制者(タイラント)になってしまうでしょう。
それは、あなたがバカだからでも、悪人だからでもありません。
たとえあなたが非常に賢明で、善意に満ちた人物であったとしても、
その権力を「善のために」使おうとする努力は、完全に、徹底的に、そして無残に失敗することになります。
なぜでしょうか?
いくつか例を挙げて考えてみましょう。
議題その1:貧しい人を助ける
もしあなたが慈悲深い王として、困っている人々に物資をたくさん与えようと決めたとします。
それはきっと気高い行いであり、社会を良くするはず、と思えますね。
けれど、そうではありません。理由は次の通りです。
王であれ、議会であれ、他の何であれ、政府というものは富を創り出すことはできません。
政府が分配する富は、まず別の誰かから取り上げなければならないのです。
つまり、王としてあなたが貧しい人々に何かを与えるには、まず他の誰かからそれを奪う必要があります。
では、その「誰か」がそれを渡したくないと思っていたらどうでしょうか?
自分で使いたいと思っているかもしれませんし、自分のやり方で寄付したいと思っているかもしれません。あるいは、あなたがそれをうまく活用できないと思っているかもしれません。
どんな理由であれ、その人があなたの計画に協力したくないと考えたとき、
あなたは一体どうするのでしょうか?
もしあなたが王であれば、人々にただ丁寧にお願いするわけにはいきません。そんなことは誰にでもできますが、人々がそれを聞く義務も、協力する義務もありません。
しかし王であるあなたは、人々に命令を出す立場にあります。
あなたの考えを実現するために、資金を出せと命じることになるでしょう。
そして、その命令が単なる提案以上のものとなるためには、それに従わなかった者に対する罰の脅しが背景にある必要があります。
たとえば、ある農民が「払えない」と思ったとしましょう。あるいは、あなたの使い道に信頼が置けないと感じていたり、ただ単に自分の金は自分で持っていたいと考えていたりするかもしれません。
そのとき、あなたはどうするのでしょうか?
黙って見逃すのでしょうか?
権力を持ちたいのであれば、それはできません。あなたの命令に人々が従わなくても何の結果も起こらないのであれば、それはもはや「権力」とは呼べないのです。
ですから、その計画に協力しようとしなかった農民は、罰を受けなければならず、他の者への見せしめにもされなければなりません。気づけば、あなたは単に慈悲深く物を配っているだけではなくなっています。自分のやり方に従おうとしない人々を、傷つけているのです。
その農民を処刑するにせよ、投獄するにせよ、家を焼き払うにせよ、あるいは彼の持ち物の一部を取り上げるにせよ、やっていることは、彼があなたに金を渡したくなかったという、それだけの理由で危害を加えることに他なりません。
こうして、王であることは、もはや「思いやり」や「寛大さ」だけの問題ではなくなります。それは「分け与えること」や「助けること」ではなく、
「支配し、罰し」すること。「脅し」「傷つける」ことに変わっていくのです。
議題その2:公共の利益に仕える
次に、あなたはおそらく、公立学校を建てて、臣民の子どもたちが良い教育を受けられるようにしたくなるかもしれません。そして、大きな図書館、公園、博物館、動物園、立派な道路網、病院など、一般の人々に利益をもたらすあらゆるものを整備したくなるでしょう。そうすれば、あなたの人々はあなたを「慈悲深く」「思いやりのある」王として称賛してくれるかもしれません。
しかし、またしても問題になるのは、それをどうやって支払うのか? ということです。王が山のような金貨やお城を手に入れるのは、努力して働いたからではありません。
そうしたものは、臣民から課税することで手に入れるのです。
つまり、あなたが支出するすべての一銭一銭は、自分のために使おうと、いわゆる「公共事業」に使おうと、その前に必ず、農民たちから取り上げなければならないのです。
現実には、あなたは彼らに何かを「与えている」のではありません。
彼らのお金を、あなたの判断で代わりに彼らに「使っている」にすぎないのです。
もし人々が、そのお金を別の使い方に回したいと思っていたら、どうしますか? 彼ら一人ひとりに自分のお金を好きなように使わせてしまえば、あなたにはもう何の権力もありません。丁寧にお願いするだけでは、どうにもならないのです。
たとえば、ある農民が公共の図書館のための出資ではなく、自分の家を大きくするためにお金を使いたいと考えたとします。あるいは、もっと土地を買いたいとか、将来のために貯金したいと思っているかもしれません。
そのとき、あなたはどうしますか? 何もしなければ、そして彼をそのまま放っておけば、あなたの権力は失われてしまいます。またしても、王であり続けるためには、あなたの計画に資金を出さない者を罰しなければならないのです。
つまり、あなたがやっているのは、結局のところ「臣民のお金で、臣民に買い与えている」にすぎません。実際には何ひとつ、自分の持ち物を与えているわけではないのです。
それどころか、もし彼らがそのお金の使い道に反対すれば、あなたは彼らを投獄するぞと脅したり、別の形で罰を加えたりすることになります。
もちろんあなたは、「これは彼ら自身のためなんだ」とか、「社会全体にとって、私の計画のほうが良いんだ」と、大声で主張することもできるでしょう。ですが、もし彼らの一部がそれに同意しなかったとしたら――
それでもあなたは、反対者たちを押さえ込むために、自分の傭兵たちを送り出して弾圧しなければならなくなるのです。
議題その3:正しい選択を強制する
自分の善意をもって王として振る舞おうとして、まず臣民からお金を盗み、それで何かを買って、臣民に与える――そんなやり方をしてみた結果、それが思っていたほど高潔でも楽しくもないことに気づいてしまいました。そこで、あなたは別のアプローチを試してみることにします。
あなたは、自分の持つ権力と権限を使って、人々にもっと健康的な生活を送らせようと決めます。すべての人に、毎日少なくとも1時間の運動をし、栄養バランスの取れた食事をとることを義務づけるのです。まちがいなく、それによって多くの人々の健康状態は改善されます。だったら、誰も文句は言わないはずです。何が問題だというのでしょうか?
ですが――では、もし誰かが従わなかったら、どうしますか? ある農民が野菜を食べたがらないとき、あなたはどう対処しますか? 「お願い」するのでしょうか?
いいえ、支配するということは「お願いする」ことではありません。「命令する」ことなのです。そして、命令とは、違反しても何の結果もないなら、それは命令ではありません。
ですから、従わなかった者は、やはり罰を受けなければなりません。
農民の金を取り上げて「罰金」と呼ぶか、牢獄に入れるか、公の場で鞭打つか――どんな方法であれ、あなたは結局、彼があなたの「助言」に従わなかったというだけで、意図的に、しかも公然と、彼を傷つけることになるのです。
あなたがもし、喫煙や飲酒、薬物の使用、あるいはお菓子の食べすぎを禁止したとします。その場合、それらの命令に背いた農民には、必ず何らかの不利益が科されなければなりません。
あなたがどれだけ「自分の提案が正しい」「これは彼らのためになる」と信じていたとしても、それに従おうとしない者には、結局のところ、あなたの傭兵たちを使って、何らかの強制的な罰を与える必要が出てくるのです。なぜなら、彼らはあなたが「選ぶべきだ」と考える選択を拒み、あなたが「選べ」と命じた通りに生きようとしなかったからです。
結果として、あなたはもはや単なる「親切な指導者」ではなく、ただの暴力的なチンピラのように見られるようになります。
たとえ、あなたが人々に強制している選択が、本来であれば彼ら自身が進んで選ぶべき「正しい選択」であったとしても、「善意」と「権力行使」が結びついた瞬間、それは暴力へと変わってしまいます。
そして、その被害者たち――もとい、「臣民」たち――は、もはやあなたに感謝の気持ちを抱かなくなります。むしろ、あなたと、あなたの「慈悲深い」計画に対して、不満と反感を抱くようになっていくのです。
それでも、あなたはまだ、この権力を「善のために」使う方法があるのではないか――そう考えているかもしれません。
議題その4:善良な人々を守る
もしあなたが、臣民に「良い選択」をさせたり、「有益な事業」に資金を出させたりすることをやめて、もっと基本的なこと――つまり、王国(この場合は地球全体)に潜んでいるかもしれない悪党や暴漢から、善良な人々を守ることに専念するとしたらどうでしょう。
これなら、誰からも文句は出ないはずです。もし「善のために権力を使う道」があるとすれば、それはまさに「悪から善を守ること」に違いありません。あなたはそう信じて、ついに世界をより良くする王としての使命を全うしようと心に決めるのです。
しかし、ここでもまた、あなたの臣民たちにはその費用を負担するかどうかを選ぶ自由がありません。もし彼らが、あなたの雇った執行者たちを暴力的だとか、腐敗していると感じたら? もし彼らが、あなたの正義観がゆがんでいると考えたら? あるいは、あなたの「保護サービス」にはその価値がないと思ったら? あなたは、彼らに「参加しない自由」を認めるのでしょうか? もしあなたが王であり続けたいなら、それは不可能です。
あなたが雇った傭兵たち、あなたが建てた牢獄、あなたが編成した軍隊とその戦争兵器――それらの存在や運用に、すべての農民が賛同するとは限りません。そんなとき、あなたはただ「私がいちばんよく知っている!」「これはあなたたちのためだ!」と叫び、納税を拒んだ者を牢に閉じ込めるのでしょうか?
あなたの「正義」や「安全」のあり方を人々に強制し、それに金を払わせた上で、なおかつ「感謝されるべきだ」と期待するのでしょうか?
あなたが「私は人々を守っているだけだ」と言いながら、武装したごろつきたちを送り込んで、「保護など望んでいない」と言う人々から金を巻き上げているなら、それはもはや救世主でも守護者でもなく、まるでマフィアそのものに見えてしまいます。
ある農民が、自分の身は自分で守りたいと考えたとしましょう。あるいは、あなたやあなたの取り巻きではなく、別の誰かに警護を依頼したいと望んだ場合――あなたはそれを認めるのでしょうか? それとも、彼にもあなたの「正義」や「安全保障」のために金を払わせるのでしょうか?
また、ある農民があなたの軍隊のしていること、そのやり方に不満を持っていたとしたら、その人があなたの計画に金を出さない自由をあなたは認めるでしょうか?
ここでも、権力を維持しようとするなら、自分の主張を他人に暴力的に押しつけ、そのための費用を彼らに強制的に負担させ、抵抗を粉砕し、そうした一連の行為すべてを「彼らをゴロツキや盗賊から守るため」と称して正当化しなければなりません。それは、少々どころかかなり皮肉なことです。「高潔」だとか「正義」だとか、あるいは「誠実」だと感じるのは難しいでしょう。なにしろ、自らが日常的に、他人への加害行為を「保護」と名乗って行っているのですから。
議題その5:城に引きこもって、なにもしない
どうやら、あなたの「無限の権力を使って世界を“正す”」という野望は、あんまりうまくいかなかったようです。「良いことをしよう」と思い、「思いやり」や「慈悲の心」で動いたつもりでも、結果として生まれたのは、脅しと暴力。なぜなら、結局のところ、それこそが「法律」と「政府」の本質だからです。
そこであなたは、ついに絶望のあまり「もうなにもしない」と決めます。
臣民たちの生活に干渉するのをやめ、城に引きこもってふてくされるのです。しかし、ちょっと待ってください! その城はどうやって建てたのでしょう? その警備は誰が担っているのでしょう? そして、あなたが享受しているすべての贅沢は、誰が支えているのでしょう?
たとえ贅沢を減らしたとしても、あなたが最終的に手元に残すものを、人々は本当に「自発的に」支払ってくれるでしょうか? つまり、あなたがだらだらと玉座に座り、臣民たちが現実の困難に立ち向かっているあいだ、その費用を気前よく負担してくれる、なんてことがあるでしょうか? それはうたがわしい。
それでもなお、王としてこの贅沢な生活を続けたいのであれば、結局あなたは、臣民たちにお金を強制的に払わせるしかないのです。つまり――たとえあなたが何もせず、農民たちのために一切行動しなかったとしても、その地位を保ち続けるためには、やはり警備隊、軍隊、そして徴税人が必要なのです。
オチ(Punch Line)
そして、ついに最後の議題にたどり着きます。本来なら、最初に考えるべきだったことなのですが。あなたが「王」に任命され、すべてを統べる者として権力を与えられたとき、あなたが言うべきだったのは、「ノー」だったのです。人々を支配し、命令する機会を差し出されたその瞬間に、あなたはそれを拒否すべきでした。もし他者に対する権力を手にしたなら、あなたがその力を使ってすべきことは、何ひとつありません。まったくありません。それこそが唯一の正しい選択だったのです。なぜなら、「暴力による権力」では、世界を救うことはできないからです。
専制的な支配というものは、たとえそれが王によるものでも、選挙で選ばれた政府によるものでも、あるいは憲法を持つ共和国によるものでも、社会を良くすることはできません。
なぜでしょうか? それは、その種の「権力」というものが、本質的にはただの暴力だからです。つまり、それは人々を脅し、傷つける力にすぎません。
そして、あなたの意図がどれほど善意に満ちていたとしても、人間社会をより良いものにすること、平和な文明を築くことは、人々を脅し、傷つけることで実現できはしないのです。これは、考えるまでもなく明らかなことではないでしょうか?
悲しいことに、ほとんどすべての人が、まったくの狂気的考え──つまり、人類をより道徳的に、より文明的にするためには、人間の中から何人かを選び出し、他のすべての人々を脅したり傷つけたり、力ずくで支配・統制することを許可すればよい──という発想を信じ込んでしまっています。このような考えは、それがどれほど広く支持されていようと、またどれほど巧妙な美辞麗句や言い訳が積み上げられていようと、完全な狂気にほかなりません。
あなたはいくらでも、憲法だの選挙だの、代表制政府だの、「被統治者の合意」だの――そういった理念について、もっともらしく説教を垂れることができるでしょう。けれど、そんな言葉では現実は変わりません。ほんの五分間でも冷静に、客観的に物事を見ようとする者であれば、状況の本質が何であるかに気づくはずです。
つまり、専制的な権力というものは、どんな形であれ、どんな目的や動機であれ、攻撃的で非道徳的な暴力を社会に加えるだけの存在なのです。
どれだけ立派なスーツを着ようが、豪華な帽子をかぶろうが、荘厳な建物に座ろうが、盛大な儀式を執り行おうが、関係ありません。それが王であれ、あなたであれ、選挙で選ばれた政治家の集団であれ、「支配する力」というものは常に、そして本質的に、「人間であることの力」と真っ向から対立するものなのです。
世界をよくしたいですか? 王冠を捨てなさい。政治を無視しなさい。
隣人を脅したり、襲ったり、金を奪ったりしてはいけません。そして、あなたの代わりに隣人を脅し、襲い、奪おうとする者に、決して投票してはなりません。あなた自身の手であれ、権力者を通してであれ、他人を「こうあるべきだ」と強制しようとしてはいけません。あなたが出資してほしいと願うものに、金を出させようとしてもいけません。そのかわりにあなたの隣人を、「自分自身の主人として扱う」ことから始めてください。なぜなら、彼は本当に、自分自身の所有者だからです。
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—Larken Rose