「愛国心か、平和か」トルストイ

原文:Tolstoy「Patriotism or Peace? Letter to Manson」(1896)


拝啓――あなたは「キリスト教の一貫性と真の平和の利益のために」北アメリカ合衆国について見解を述べてほしいと手紙をくれました。そして「諸国民が国家的平和を確保する唯一の手段に目覚める日が近いことを望んでいる」と記しています。

私もその希望を抱いています。その希望を抱くのは、愛国心を称賛し、若い世代を愛国心という迷信の中で育てながらも、同時に愛国心の避けがたい帰結――戦争――を望まないという、現代の諸国民の盲目さが、もはや極みに達したように思えるからです。これは、少し考えるだけでも、偏見のない人なら誰もが口にしたくなるような明白な矛盾であることに気づくはずです。

しばしば、子どもに二つの両立しないもののどちらを選ぶか尋ねると、「どちらも欲しい」と答えます。

「馬車に乗って出かけたい? それとも家にいたい?」――「どっちも。馬車に乗って出かけて、家にもいたい」

ちょうどそのように、人生に問われている「愛国心か平和か」という問いに対し、キリスト教国は「どちらも。愛国心も平和も」と答えます。しかし、同時に馬車に乗って出かけながら家にいることが不可能であるように、愛国心と平和を両立させることも不可能なのです。

つい先日、アメリカとイギリスの間で、ベネズエラとの国境をめぐって争いが起きました。ソールズベリー(訳注:当時の英首相)が何かに同意しなかったことから、クリーブランド(訳注:同米大統領)が上院に向けて声明を書きました。双方から愛国的で好戦的な声が上がり、証券取引所にはパニックが広がり、人々は何百万ポンド、何百万ドルという金を失いました。エジソンは、アッティラがすべての戦争で殺した人数よりも一時間で多くの人間を殺すことのできる兵器を発明すると発表し、両国は戦争の準備に熱心に取りかかりました。

しかしその一方で、イギリスでもアメリカでも、さまざまな文人、公爵、政治家たちが、自国政府に対して戦争を避けるよう訴えはじめました。「議論されている件は、戦争を始めるだけの重要性に欠ける。特に、同じ言語を話すアングロサクソンの兄弟国が互いに戦争すべきではない。他国を冷静に支配すべきなのだ」と。あるいはまた、あらゆる主教、大執事、司祭がこの件について教会で祈り、説教をおこなったからか、あるいは両国が準備が足りないと判断したからか――今回は戦争にはなりませんでした。そして人々は安堵したのです。

けれども、事態を見通す能力がほんのわずかでもあれば、現在イギリスとアメリカの対立を招いている原因が依然として存在し続けていることが分かるでしょう。たとえ今回の衝突が戦争に発展せずに済んだとしても、明日か明後日にはまた別の衝突が、たとえばイギリスとロシア、イギリスとトルコといった新たな組み合わせで現れ、いずれは必ず戦争へとつながるのです。

もしも、武装した二人の男が隣り合って暮らし、子どもの頃から「権力、富、栄光こそ最高の徳である」と教え込まれて育ち、必然的に「他者、すなわち隣人の持つものを犠牲にしてでも、武力によって権力や富や栄光を手に入れることは称賛に値する行為だ」と信じ、さらにその二人のあいだに道徳的・宗教的・政治的な抑制が何も存在しないとしたら、そのような者たちが常に争う結果になるのは、もはや明白ではないでしょうか。彼らのあいだの通常の関係が戦争になるのは避けられず、仮に一時的に離れることがあったとしても、それはフランスのことわざが言うように、「より遠くへ飛びかかるための助走, pour mieux sauter」にすぎない――つまり、より激しく相手に襲いかかるための間合いとりにすぎないのです。

個人の利己主義というのは恐るべきものです。それでも私的生活における利己主義は武装しておらず、自らの敵に対して武力で対抗することが正当だと考えてはいません。私的な利己主義は、国家権力や世論によって抑制されています。たとえば、ある個人が銃を持って隣人の牛や畑の一区画を奪おうとすれば、すぐさま警官が現れてその者を逮捕し、牢屋に放り込むでしょう。そのような行為は、世間の非難を受け、「泥棒」「強盗」として断罪されます。

しかし、国家となると話はまるで異なります。国家はすべて武装しています。彼らを抑える力は存在しません。唯一あるとすれば、鳥の尾に塩をふりかけて捕まえようとするような滑稽な試み――すなわち国際会議を設けようとすることですが、それも結局、強大な国家がそれに従う気などない限り無意味です(強国が武装するのは、まさに誰の言うことも聞かずにすむようにするためです)。それに何より問題なのは、世論です。個人の暴力行為を咎める世論が、国家による暴力にはむしろ賞賛を与え、他者のものを奪い取ることを、国家の力を増すという理由で「愛国」の美徳として称えるのです。

どの日の新聞でもいい、開いてみれば、すぐに「黒い染み」が見つかるでしょう――つまり、戦争の原因となる事柄です。今は朝鮮です。次はパミール高原、あるいはアフリカ、アビシニア、トルコ、ベネズエラ、トランスヴァール……。略奪者たちの仕事は片時も止みません。あちこちで小さな戦争が、国境線での銃声の応酬のように常に起きており、真の大戦争は、いつでも、まさにこの瞬間にも始まり得る状態にあるのです。

アメリカ人が「アメリカの偉大さと繁栄」を他のすべての国々の上に置きたいと願い、イギリス人も自国に対して同様の願いを持ち、ロシア人も、トルコ人も、オランダ人、アビシニア人、ベネズエラ人、トランスヴァール人、アルメニア人、ポーランド人、ボヘミア人も――すべての人々が、自国の偉大さと繁栄を願い、その願いを「隠すことなく、抑えることなく、むしろ誇りとして、自分自身や他者のなかに育てるべきもの」と信じているとするならば――そして、ある国や民族の偉大さと繁栄が、しばしば他国、あるいは複数の国々の損失なしには得られないのだとすれば、戦争を避けることなどどうして可能でしょうか?

明らかに、戦争を避けるために必要なのは、説教をしたり、神に平和を祈ることではありません。英語を話す諸国同士が、他の民族を支配するために平和を保つことを誓わせることでもなく、二重三重の同盟を築くことでも、王子と王女を結婚させることでもありません。必要なのは、戦争の根を絶つことです。

その根とは、自民族の幸福だけを願う排他的な欲望です。つまり、それこそが愛国心なのです。したがって、戦争をなくすには、愛国心をなくさなければなりません。しかし、愛国心をなくすには、まずそれが悪であるという確信を人々の心のなかに生み出さなければなりません。そしてそれは非常に難しいことです。

「戦争は悪だ」と人に言えば、人々は笑います。なぜなら、そんなことは誰でも知っているからです。「愛国心は悪だ」と言えば、多くの人は同意するでしょう――ただし、こう付け加えます。「そう、誤った愛国心は悪だ。でも私たちの持っているのは違う、正しい愛国心だ」と。しかしその「正しい愛国心」が何であるのかを、誰ひとりとして説明しようとはしません。

もし「正しい愛国心」が、多くの人の言うように「侵略的でないこと」だとしても、それでもなお、すべての愛国心は必然的に保持しようとする性質を持っています。つまり、人々は一度手にしたもの――征服して得たもの――を手放したくないのです。そもそも、征服なしに成立した国家など存在しません。そして征服は、それを達成した手段――すなわち暴力と殺人――によってしか維持することができません。

もし愛国心が「保持的」ですらないとしたら、それはむしろ「回復の愛国心」です。つまり征服され、抑圧された民族の側が抱く愛国心です。たとえばアルメニア人、ポーランド人、チェコ人、アイルランド人などの愛国心がそれです。そしてこの種の愛国心こそ、もっとも怒りに満ち、暴力を誘発しやすいがゆえに、最も危険で最も悪質なものだと言えるでしょう。

愛国心が善であることはありえません。なぜ人々は「利己心にも善があるかもしれない」とは言わないのでしょうか。むしろ利己心のほうが、自然に生まれ持った感情であるだけに、まだ擁護しやすいのです。それに比べて、愛国心は不自然な感情であり、人為的に人間の中に接ぎ木されたものです。

「愛国心が人類を国家にまとめあげ、国家の統一を保ってきた」と主張する人もいるでしょう。しかし、人間はすでに国家としてまとまっています。その目的はすでに達成されているのです。であれば、なぜ今なお、自国への排他的忠誠を保ち続ける必要があるのでしょうか。それによって、あらゆる国家と民族が計り知れない害を受けているというのに。人類を国家にまとめあげたその愛国心が、いまやその国家を壊そうとしているのです。

もしこの世にたった一つの愛国心――たとえばイギリス人だけの愛国心――が存在していたのなら、それは融和的であり、あるいは有益なものと見なすこともできたかもしれません。けれども現実には、アメリカの愛国心、イギリスの愛国心、ドイツ、フランス、ロシア、それぞれの愛国心が互いに対立しているのです。このような状況において、愛国心はもはや人類を結びつけるどころか、分断する働きしか持っていません。

ギリシアやローマの時代において、愛国心が国家の統一に貢献したというのは事実でしょう。けれども、その愛国心が、キリスト教のもとで1800年にわたって人類が生きてきた現代においても、まったく同じように有益であるという主張は、「種まきの前に耕すのは良いことだったのだから、作物がもう育っている今も耕すべきだ」と言っているようなものです。

かつての功績を記念して、愛国心を保存しておくことには意味があるかもしれません。それは神殿や墓といった古代の記念物を保存するのと似ています。しかし、神殿や墓は人に危害を加えることなく、静かに残ってくれますが、愛国心は違います。愛国心は今もなお、想像を絶するほどの苦しみを人類に与え続けているのです。

なぜ今、アルメニア人とトルコ人は騒乱状態にあり、虐殺され、野獣のようになり果てているのでしょうか。なぜイギリスとロシアは、トルコの遺産をそれぞれの思惑で分け合おうとしながら、アルメニア人の虐殺を止めようとはせず、ただ様子をうかがっているのでしょうか。なぜアビシニア人とイタリア人は殺し合っているのでしょうか。なぜ、ベネズエラをめぐって恐ろしい戦争が起こる寸前までいき、続いてトランスヴァールでも同様の危機があったのでしょうか。なぜ、日清戦争、露土戦争、普仏戦争といった戦争が次々と起きたのでしょうか。なぜ、アルメニア人、ポーランド人、アイルランド人といった征服された民族のあいだには、今なお激しい憎悪と悲痛が渦巻いているのでしょうか。そしてなぜ、すべての国々が戦争の準備を加速させているのでしょうか。

これらすべては、愛国心の結実にほかなりません。この情熱のために、すでに膨大な血が流されてきました。そして、人々がこの時代遅れの遺物から自らを解放しないかぎり、これからもなお血は流され続けるでしょう。

私はこれまでにも、たびたび愛国心について書いてきました。それはキリストの教えを正しく理解した場合、愛国心はその教えとまったく両立せず、キリスト教社会における最低限の倫理的要求にすら反するという内容でした。けれども、そのたびに私の主張は、沈黙で迎えられるか、あるいはこう言って片づけられてきました。「あなたの言っていることは、ユートピア的な空想であり、神秘主義であり、アナーキズムであり、そしてコスモポリタニズムにすぎない」と。そして多くの場合、私の議論を要約し、その上でこう付け加えるだけです――「結局これは、ただのコスモポリタニズムにすぎないのだ!」と。まるで「コスモポリタニズム」という言葉ひとつで、私の主張のすべてが自動的に論破されたかのように。

思慮深く、成熟し、賢明で、親切な人々、そして何より重要なのは、まるで丘の上の町のように立ち、知らず知らずのうちに大衆を導く立場にある人々が、愛国心の正当性と有益性はあまりに明白で疑いようもないため、その神聖な感情に反するような軽率で愚かな攻撃にわざわざ応答するまでもない、と思っているのです。そして、大多数の人々は、幼い頃から誤った教育を受け、愛国心に感染させられているため、その高尚な沈黙を最も説得力ある「返答」として受け取り、無知の闇の中を歩み続けているのです。

人々を苦しみから救い出すことができる立場にいながら、それをしようとしない者たちは、巨大な罪を犯していると言わざるをえません。

この世で最も恐るべき悪とは、偽善です。キリストがかつて怒りを表したのは、律法学者たちの偽善に対してでした――そのことは、決して無意味ではなかったのです。

しかし、パリサイ人の偽善は、現代の私たちの偽善と比べたとき、いったい何だったでしょうか? 現代の偽善者と比較すれば、パリサイ人たちはもっとも正しい人々であったと言えます。そして、彼らの偽善の技術など、私たちのそれに比べれば子どもの遊びにすぎません。そうならざるを得ないのです。キリスト教という謙遜と愛の教義を公然と掲げながら、実際には武装した強盗の野営地の中で暮らしている私たちの生活は、最初から最後まで、ひとつながりの、恐るべき偽善であるほかにありません。

片方の端に「キリスト教的な聖性」とそれに伴う「誤りなき正しさ」を据え、もう一方の端に「異教徒の剣」と「絞首台」を置いたような教義を掲げていれば、じつに都合がいいのです。もし聖性によって人々を欺き、従わせることが可能であれば、その「聖性」が前面に出てきます。そして、欺くことができないとなれば、今度は剣と絞首台の出番となるのです。このような教義は、たいへん都合のよいものです。

しかし、やがて来るのは、そうした嘘でできた蜘蛛の巣がついに破れる瞬間です。そしてもはや両端を保ち続けることはできなくなるのです。どちらか一方を、捨てなければならなくなる。愛国心という教義についても、まさに今、それが起ころうとしています。

人々がそれを望むかどうかに関係なく、ある問いが、明白に人類の前に突きつけられています。それは、計り知れない身体的・精神的苦しみをもたらしているこの愛国心が、果たして本当に必要なものであり、美徳たりえるのか? という問いです。この問いには、否応なく答えなければなりません。

つまり、「愛国心は、それがもたらすおびただしい苦しみを償ってなお余りあるほどの恩恵を人類にもたらしている」と証明するか、あるいは「愛国心は悪であり、それを人間に植えつけ、推奨するのではなく、むしろ全力でそれと闘い、脱却する必要がある」と認めるか。このいずれかしかありません。

フランスの言葉で言えば、C’est à prendre ou à laisser(受け入れるか捨てるかのどちらかだ)**です。もし愛国心が善であるならば、「平和をもたらす」とするキリスト教は空しい幻想ということになります。それはできるだけ早く根こそぎ取り除くべきでしょう。けれども、もしキリスト教が本当に平和を与えるものであり、そして私たちが本当に平和を望むのであれば、愛国心はまさに野蛮の残滓です。今のように愛国心を扇動したり育てたりするのは間違っているどころか、あらゆる手段を用いても根絶されるべきです。説教によって、説得によって、軽蔑と嘲笑によって、それを滅ぼしていかなければならないのです。

もしキリスト教が真理であり、私たちが本当に平和に生きたいと望むのであれば、私たちはただ自国の力に喜びを感じないようにするだけでは足りません。むしろその力が弱まり、減少することに喜びを見出し、そのために尽力することが求められるのです。ロシア人であれば、ポーランドやバルト諸国、フィンランドやアルメニアがロシアから分離し、自由を得ることに対して喜びを抱くべきです。イギリス人もまた、アイルランドやインド、その他の領土について同様に考えるべきです。そして、それを積極的に助けるべきです。なぜなら、国家が大きければ大きいほど、その愛国心はより不正で残酷になり、その国家の力が築かれている苦しみの総量もまた大きくなるからです。したがって、もし私たちが本当に自分たちの掲げる理想のとおりに生きたいと望むのであれば、国家の成長を望むのをやめるだけでは足りず、その縮小と弱体化を望み、そのためにあらゆる努力を注ぐ必要があるのです。

そして、これこそが、次の世代をどのように教育すべきかという問題にも関わってきます。つまり、ちょうどいま若者が「自分だけがすべてを食べ、他人には何も残さない」「自分が通るために弱い者を押しのける」「他人が必要とするものを力づくで奪う」といったむき出しの利己心を恥ずかしいことだと感じるのと同じように、自国の力が増すことを望むこともまた恥ずかしいことだと感じるように育てなければなりません。

自分自身をほめそやすことは愚かで恥ずかしいとされています。同じように自国を称賛することも愚かであると見なされるようにならなければなりません――それは現在、最良とされる国家史、絵画、記念碑、教科書、論説、詩、説教、そしてくだらない国歌のなかであたりまえのように行われていることです。私たちは理解しなければなりません。私たちが愛国心を称賛し、それを若者のうちに育てようとし続けるかぎり、各国の肉体的・精神的生命を破壊する軍備はなくならず、また、今まさに準備されつつあるような巨大で恐ろしい戦争は避けられないのです。そして、私たちは今、極東の新たな、恐るべき戦士たちを、この愛国心の名のもとに堕落させながら、戦争の輪の中へと引きずり込もうとしているのです。

現代においてもっとも滑稽な人物のひとり――雄弁家、詩人、音楽家、劇作家、画家、そして何より愛国者である――皇帝ウィルヘルムは、最近ひとつの素描を描かせました。それは、ヨーロッパ諸国のすべての民族が抜き身の剣を持って海岸に立ち、大天使ミカエルの指揮のもと、遠くに座っているブッダと孔子の像をじっと見つめている、というものです。ウィルヘルムの意図によれば、これは「ヨーロッパ諸国は団結し、そこから押し寄せてくる脅威に立ち向かわなければならない」ということを意味しています。そして、彼はまったく正しいのです――つまり、彼の異教的で、粗野で、愛国主義的な視点、つまり、すでに1800年前に時代遅れになった視点から見れば、です。

ヨーロッパ諸国は、愛国心のためにキリストの教えを忘れ、平和を愛していたこれらの民族(中国・日本)に、愛国心をますます吹き込み、焚きつけてきました。そしていまや、その扇動はあまりにも成功してしまったのです。

本当に――もし日本や中国が、我々ヨーロッパ人がキリストの教えを忘れてしまったのと同じくらいに、ブッダと孔子の教えを完全に忘れてしまうならば、彼らはたちまち「人を殺す技術」を習得するでしょう(それがいかに早く習得できるかは、日本がすでに示しています)。そして、勇敢で、器用で、体力もあり、人数も多い彼らが、ヨーロッパ諸国がアフリカに対してしているのと同じことをヨーロッパに対してすることは、もはや避けられないでしょう。ヨーロッパが彼らに対して、軍備やエジソン式の機械装置以上の何かをもって対抗しないかぎりは、そうなる運命なのです。
「弟子は師にまさることはない。しかし、完全に訓練された者は皆、その師のようになるであろう」(訳注:ルカ福音書6:40)

ある小国の王が、従属を拒んだ南方の部族を征服するために、あと何人兵士を加え、どう訓練すべきかを孔子に尋ねたとき、孔子はこう答えました。
「軍隊をすべて解散しなさい。軍隊に費やしている金を、民の教育と農業の改善に充てなさい。そうすれば、その南方の部族は自ら王を追放し、戦争をせずともあなたに従うようになるでしょう」

こう教えたのが、私たちが「恐れよ」と言われている孔子なのです。

私たちはキリストの教えを忘れ、キリストを捨て去りながら、暴力によって他国を従わせようとしています。けれどもそれによって得られるのは、ただ新たな、しかも現在の隣国よりもはるかに強力な敵を、自らの手で準備しているにすぎないのです。

ある友人がウィルヘルムの描かせた絵を見て、こう言いました。「絵そのものはすばらしい。だが、その下に書かれている解説はまったく逆の意味に見える。実際には、あれは大天使ミカエルが、武装に身を固めた山賊のようなヨーロッパの諸政府に向かって――まさに彼らを滅ぼし、消し去ろうとしているもの、すなわちブッダの柔和さと、孔子の理性を指し示している図だよ」と。彼はこう付け加えることもできたでしょう。「そして老子の謙虚さもまた」と。

そして実際、私たちは、自らの偽善ゆえに、ここまでキリストを忘れ去り、キリスト的なものを私たちの生活から完全に蝕み尽くしてしまったがために、もはやブッダや孔子の教えのほうが、はるかに高い精神性をもっているとさえ言えるのです――少なくとも、私たちの似非「キリスト教国」に蔓延している獣のような愛国心と比べれば。

ヨーロッパ、ひいては全キリスト教世界の救いは、ウィルヘルムの絵のように、山賊のように剣で身を固めることによって実現されるのではありません。ましてや、海を越えて自らの兄弟を殺しに行くことによってでもありません。その反対です。救いは、野蛮の遺物である愛国心を捨て去ることによって訪れます。そして、愛国心を放棄したのちには、非武装を実践することによってこそ実現されるのです。

私たちは、東洋の諸国に対して、野蛮な愛国心と残虐さの模範を示すのではなく、キリストが私たちに教えてくれた「兄弟としての共生のあり方」をこそ示さなければならないのです。

 

 

〚本文ここまで〛


「ヨーロッパの民よ、最も神聖なる宝を守れ!」
(Peoples of Europe, Guard Your Most Sacred Possessions)
ヴィルヘルム2世が構想し、画家ヘルマン・クナックフス (Hermann Knackfuss) によって制作された寓意画。なお、孔子は描かれていない。

 

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ伯爵(1828–1910)

ロシア出身の小説家であり、世界文学史上もっとも偉大で影響力ある作家の一人とされる。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの小説でリアリズム文学の頂点を築いた一方、晩年には倫理的・宗教的な思想家としての側面を強めた。1870年代の深い道徳的危機ののち、彼はイエスの「山上の垂訓」を文字通りに受け取り、暴力・国家・財産制度を否定する思想に至った。その結果、彼はキリスト教アナーキストとして非暴力・反戦・反国家を説くようになった。

関連:「愛国主義と政府」トルストイ全集 第47(国立国会図書館デジタルコレクション)