「労働の神とその聖職者を殺せ」ziq

原文:Kill The God of Work & All His Clergy(2022)


機械の中の生命

ギリシャの哲学者ディオゲネスは、夕食にパンとレンズ豆を食べていた。王に媚びて快適に暮らしていた哲学者アリスティッポスが彼を見かねてこう言った。「王におもねることを学べば、そんなレンズ豆なんか食べなくてすむのに」ディオゲネスは言った。「レンズ豆で生きる術を学べば、王におもねる必要などないのに」

私が思うに、時代を通じてアナーキズムの最も影響力ある要素の一つ、特に現在のこの2010年代において強く表れているのが、「アンチワーク(反労働)」――すなわち労働の完全なる拒否――である。文明の歴史と同じくらい古いこの思想は、近年再び勢いを増しており、当初は小さなアナキストのサークル内にとどまっていたが、今では主流文化の中で爆発的に拡がりつつある。世界中の何百万人もの人々が、まさにこのアナーキスト的な概念に突如として触れることになった。

この傾向は特に新型コロナウイルスパンデミックの際に顕著だった。何百万人もの労働者たちが、自らの命がいかに雇用主にとって使い捨てであるかを、まざまざと目撃することとなった。利益の減少を避けるために、企業が労働者たちを疫病の犠牲にするという事例が無数にあったのだ。

中国では、「寝そべり」と呼ばれる反労働運動が爆発的な人気を得ており、国家による幾度の抑圧にもかかわらず広がりを見せている。駱華忠(ルオ・フアジョン)は2021年4月のある掲示板投稿で「寝そべることこそ正義だ」と宣言し、カーテンを閉めて日光を遮り、毛布の下でベッドに寝そべっている自分の写真を添付した。
The Guardian.The low-desire life: why people in China are rejecting high-pressure jobs in favour of ‘lying flat’.

駱華忠は、2年以上定職に就いていなかった。消費を抑える必要はあったが、生産性を下げることで得られた豊富な余暇時間は、彼にとって実に解放的だったのである。

投稿の中で彼は、労働主義的な中国社会に蔓延する地位不安は、堕落した価値観と圧倒的な同調圧力の産物であると説明した。彼は、寝そべって生きること――つまり怠惰な存在として生きること――には何の問題もないと宣言した。消費財への欲望と、生産的であることを求める構造的圧力を克服することで、彼は労働という隷属状態から自らを解放することに成功したのである。

この駱の投稿は、都市部の中国の若者たちに強く響いた。彼らは何年も、報われることのないまま、ノンストップで働き続けてきたのだった。中流階級としての生活を約束されていたはずが、その見返りは生活費の上昇とともにどんどん空洞化していった。同じように労働から脱落していた人々は、彼の投稿に熱狂的に反応し、最小限の労働と支出で生き延びるためのノウハウを共有し合った。

この思想は瞬く間にソーシャルメディアで拡散された。数ヶ月のうちに、「寝そべり」運動は、過酷な労働文化と高騰する生活費に対して反発を強めながら、急速に拡大していった。

中国共産党は、ネット上から「寝そべり」のすべての言及を抹消しようと検閲キャンペーンを開始した。国営メディアは必死になって、駱の〈危険思想〉を貶め、人々をオフィスや工場へと恥や恐怖によって引き戻そうとした――人々がまさに見捨てつつあったその場所へ。

同時期、英語圏でも別のアンチワーク運動が爆発的に立ち上がった。その中心となったのは、アナキストが運営するRedditフォーラム「r/antiwork」で、わずか数ヶ月のうちに何百万人もの登録者を集めた。パンデミック、大規模なインフレ、そして労働文化そのものへの嫌気が、世界中の人々に、「自分はなぜ毎朝、わざわざ仕事に向かうのか?」という問いを投げかけ始めていたのである。

アナキストたちが「労働(work)」というとき、それはきわめて単純で明快な意味で使われている。すなわち、労働力を搾取し、それを自己維持のために取り込む巨大な機械、それが労働である。

Wolfi Landstreicher(ウォルフィ・ラントシュトライヒャー)はこう述べている:

君や私が生きているこの社会において、『労働』とは、個人の時間、行動、力が自分自身から切り離されていくこと、すなわち疎外である。言い換えれば、それは、私たちがすること、あなたがすること、私たちが一緒に行うことが、私たち自身の外部にある力(個人であれ、社会構造であれ)によって決定され、彼らの利益のために奉仕するよう制度化された過程のことなのだ。

Landstreicher, Wolfi. A Sales Pitch for the Insurrection™. theanarchistlibrary.org/library/wolfi-landstreicher-apio-ludd-feral-faun-a-sales-pitch-for-the-insurrection.

悲しいことに、あらゆる急進的思想が突然注目を浴びたときに起きるように、多くの日和見主義者(オポチュニスト)たちが「反労働anti-work」を意図的に誤解・歪曲し、そのポスト左派的アナキストのルーツを覆い隠そうとしている。共産主義者やリベラルたちが、アナキスト固有のこの思想を乗っ取り、自らの19世紀的な労働肯定pro-workイデオロギーに都合よく合致させようと、次々と動き出している。

だが、反労働とは、アカ(共産主義者)たちが言うような資本主義下の労働だけへの批判ではないし、リベラルたちが装っているような「労働環境の改善」や「優しいボスの必要性」でもない。それは、労働という制度そのものの全面的な否定なのだ。ボスが誰であれ、報酬の形式が何であれ、経済・社会体制がどのようなものであれ、労働という営為それ自体を拒絶するのである。

反労働とは、労働という制度を根こそぎ引き抜き、我々を絡め取っているあらゆる隷属のシステムを打ち砕き、可能なあらゆる手段で職場を妨害し、市場という巨大なハリボテの正体を暴き、その虚構の塔に息を吹きかけ、すべてのカードが平らに崩れるまで解体し尽くすことにある。

それ以外の主張をする者は、アナキズムの思想を意図的に薄め、味も栄養もない曖昧なものに変質させようとする乗っ取り屋entryistであり、彼らが勧誘しようとする時代遅れの政治プログラムに接合可能な、毒にも薬にもならぬ凡庸な教義に引き下げようとしているのだ。

プロテスタント的労働倫理は、長年にわたってこの地球文明を締め上げ、我々の心に「生産性こそが人間の価値を決める」というトラウマを植え付けてきた。勤勉であると見なされる者は社会から温かく迎えられる一方で、強い労働倫理を持たない者や、生涯にわたって無意味な雑役に耐え抜く能力を持たぬ者は、「怠惰で使いものにならないゴミ」として、友人からも、教師からも、家族からも、政府からも切り捨てられてきた。

よくある(そして意図的な)誤解に反して、アンチワークとは「身体を一切動かさずに生きたい」という意味ではない。それは、労働に代わる新たな生活様式――すなわち遊びplayに基づいた生を育むことを意味する。

もっとも、「遊び」という言葉もまた、労働主義社会の中では、労働年齢にある者には不適切な営為として貶められてきた。なぜなら遊びは、生産性を損ない、雇用主たちが血眼になって求める利益を削るからである。

アルフレード・M・ボナーノ:

遊びは、常に新しく、常に動き続ける生命の衝動によって特徴づけられる。私たちが、あたかも遊んでいるかのように行動するとき、私たちの行為はその衝動に満たされる死から自由になる。遊びは、生きているという実感を与えてくれる。生の興奮をもたらしてくれる。これに対し、別の行動様式では、すべてを義務として、やらねばならないこととして遂行する。資本の疎外と狂気とは正反対の、常に新鮮な遊びの興奮の中にこそ、私たちは喜びを見出すことができる。

Bonanno, Alfredo M. Armed Joy. theanarchistlibrary.org/library/alfredo-m-bonanno-armed-joy.

私の父は、私が12歳になったとたん、「時間の無駄だ」と言って私の遊びを定期的に恥じさせるようになった。文明化された子どもは、12歳から18歳までの労働訓練プログラム(つまり学校)にどっぷり浸かり、毎日の宿題をこなすことを期待される。これは、時間を自分のものではなく、未来の雇用主に搾取されるための商品として認識させる訓練にほかならない。

しかし、何千年もの間、人間は遊びしか知らなかった。採集-狩猟民は、生活に必要なすべてのものを自由に手に入れることができたため、「労働」の必要などなかった。私たちが、古代の食料林を焼き払い、恒久的な定住地を築き、作物を栽培し、土地から非再生資源を抽出し始めたそのときから、遊びは駆逐され、人間社会の推進力として労働が取って代わったのだ。

世界のさまざまな地域に今も残るわずかな採集・狩猟民を研究している人類学者たちは、こうした社会が、階級社会的でなく、水平的であり、文化の中で労働よりも遊びを強調していることに何度も注目してきた。

発達・進化心理学者のピーター・グレイはいう:

「世界の孤立した地域を訪れ、狩猟採集社会を観察した人類学者たちは、例外なく、彼らの社会が非常に平等主義的であることに驚かされてきた。人々は20人から50人ほどの自律的な小集団で生活し、狩猟や採集可能な植物を求めて移動し続ける。

とりわけ注目すべきなのは、彼らの社会には〈階層〉が見られないという点である。首長もボスも、指導者も追随者もいない。すべてを共有し、誰も他者より多くを所有しない。集団の決定は、徹底した話し合いによって合意が得られるまで行われる。彼らは個人の自律に対して驚くべき敬意を払っており、お互いに命令したり、求められていない助言をすることすらない。

2匹以上の若い動物が遊ぶには、支配しようとする衝動を抑える必要がある。社会的遊びは常に、当事者すべての自発的な参加を要するため、すべての遊びは本質的に平等主義的で協力的である。支配しようとする行動があれば、相手は逃げるか、遊びではなく闘争が始まってしまう。

こうした反支配機能が成人の遊びにもあることを示す最も説得力のある証拠のひとつは、霊長類の研究に見られる。たとえば、(オナガザル科の)マカク属の中には、階層が強く、血縁以外との協力が乏しい専制的な種と、階層が弱く、非血縁間でも協力が盛んな平等主義的な種が存在する。観察によれば、後者の方が成体になってからも社会的遊びを多く行っており、これは協力関係を育む手段として機能していると考えられる。……

私の仮説は、狩猟採集民はどこでも、社会生活のすべてを遊びに変えることによって、攻撃性を減らし、協力と共有を促進する術を身につけたというものである。

狩猟採集文化で育つ子どもは、人類学者が観察したどの文化よりも多くの遊びの機会を与えられている。そして、彼らが成長して大人になってからも、その遊び心は失われることがない。狩猟や採集といった労働でさえ、遊びとして行われる。なぜなら、それは仲間とともに行われ、自発的であるからだ。誰かが狩猟や採集をしなくても、飢えることはない。彼らの宗教もまた、遊び心に満ち、想像力豊かで、非ドグマ的であり、神々は脅威ではなく、祭りのなかでの遊び相手である。音楽、踊り、芸術、非競争的なゲーム。これらもまた、大人も子どもも定期的に遊びとして取り組んでいる。

仮に誰かが支配的な態度を取り始めたとしても、それに対する対処は、少なくとも最初のうちは遊びとしてなされる。たとえば、傲慢な者に対しては、彼をからかうようなふざけた歌を即興で作ったり、「おやおや、ずいぶん偉そうな “ビッグマン” じゃないか」と茶化したりするのだ。

Gray, Peter. The Play Theory of Hunter-Gatherer Egalitarianism. www.psychologytoday.com/us/blog/freedom-learn/201908/the-play-theory-hunter-gatherer-egalitarianism.

労働とそれに伴うあらゆる権威主義的な荷物が、遊びを大多数の文化から押しのけてしまったのは、じつに悲劇的な出来事である。アナキストが自らのためにできる最も重要なことのひとつは、遊ぶ喜びを再び学ぶこと、生産性への強迫観念を捨てることである——それは人生を通して、さまざまな権威者たちによって私たちに叩き込まれてきたものだ。

もし他の文化が、狩猟採集民たちの実践する創造的な遊びを受け入れたなら、プロテスタント的労働倫理が公共の意識に握っている死のような支配は、たちまち失われるだろう。

労働は私たちを定義する必要などないし、機械のなかの私たちの生産性が、私たちの価値を測る尺度である必要もない。機械を稼働させ続けるためだけに生涯を捧げることは、まさに私たちの存在の陰鬱で愚かな浪費として認識されるべきなのだ。その機械は、結局のところすべての生命を押し潰す。唯一の問題は、それがあなたの骨をその歯車でゆっくりと砕きながら、そのカラフルなレバーがあなたに小さな穴を開け続ける間、あなたがどれだけ長くもつか、ということだけだ。

我らに豊饒なる雇用を与えたまう主に祝福あれ

労働を中心に回るこの世界では、「経済」が崇拝される——それは尊い神聖なる存在として扱われている。遊びや怠惰や、収益を生まない創造的営みに費やされるあらゆる瞬間は、全能の経済から盗まれた一銭である。生産性を維持する意志や能力に欠けた者は、現代の唯一の神——「経済」に対する罪を犯した者として見なされる。そしてこの神は復讐の神である。彼に罪を犯した者は、彼の聖職者たちによって社会の溝に突き落とされ、朽ち果てて死ぬまで放置される。

「経済」が最も好むこと、それは聖職者たちが罪深い非生産的労働者を彼に捧げることである。だからこそ、ホームレスや刑務所が資本主義文明にとって欠くことのできない構造として存在しているのだ。

この神の轟くマントラは、地球のあらゆる場所に鳴り響いている——働け、さもなくば死ね——働け、さもなくば死ね——そしてあなたがついに限界を迎えて死ぬ時には、それをなるべく人目に触れるかたちで行うようにせよ。そうすれば他の信者たちは、労働のペースについていけなかった者の末路を直視せざるをえなくなるだろう。彼らは目を逸らそうとするが、その視界の隅には必ず悲惨な姿が映り込み、それがさらに彼らの神への恐怖を深く刻み込むのだ。

働け、さもなくば死ね——働け、さもなくば死ね——働け、さもなくば死ね。このコーラスは、私たちの人生のほぼすべての瞬間に響き渡っている。たとえ「自由時間」であっても、それは完全に労働の亡霊に支配されている。もはや私たちは存在の単純さを楽しむことができない。代わりに、目覚めているすべての時間における生産性を測り、それが他者と比べて見劣りしていれば自分を罰するのだ。良き労働者とは、常にスキルを高め、機械にとってより有用な存在になる方法を探し続ける者である。良き労働者とは、階層構造をひたすら登り、いつかは聖なる聖職者の列に加わって、その下にいる怠惰な劣等者たちを打ち倒す者である——その生産性の低さを理由にして。

現代の反労働運動は、20世紀後半にアナキストのボブ・ブラックによって生み出された。ブラックは人生の多くの時間を費やして、19世紀の保守的な生産性、産業主義、人間の商品化思想に抗してきた——それは資本主義者だけでなく、共産主義者(アナルコ・コミュニストも含む)からも出てきた思想である。彼が特に失望していたのは、同じアナキストたちが、その起源である悲惨な労働者階級から受け継いだ惨めな労働文化と訣別しようとしなかったことだった。

ボブ・ブラックはいう:

労働は、この世界におけるほとんどすべての惨めさの源だ。君が思いつくあらゆる悪徳は、労働をすること、あるいは労働のために設計された世界に生きることから生まれている。苦しみを終わらせるためには、労働をやめなければならない。[…]

リベラル派は雇用差別をなくすべきだと言う。私は雇用そのものをなくすべきだと言う。保守派は「労働の権利」法を支持する。マルクスの放蕩息子ポール・ラファルグにならって、私は「怠ける権利」を支持する。左翼は完全雇用を推進する。私はシュルレアリストと同じく――ただし私は冗談ではなく――完全失業を推進する。トロツキストは永続革命を訴える。私は永続的な歓楽を訴える。だが、あらゆるイデオローグたちが(そして実際にそうだが)労働を支持しているとはいえ、彼らは妙にそのことを明言したがらない。彼らは賃金、労働時間、労働条件、搾取、生産性、利益については延々と語るだろう。だが、労働そのものについては、何も言いたがらない。

私たちの代わりに思考してやろうというこれらの専門家たちは、我々全員の人生に深く関わっているはずの「労働」について、結論をほとんど共有しようとしない。彼らは仲間内で細部を巡って小競り合いをしている。労働組合と経営者は、我々が生き延びるために自分の時間を売るべきだという点では一致している。ただしその価格を巡って交渉しているのだ。マルクス主義者は、我々は官僚によって指図されるべきだと考えている。リバタリアンは、我々は実業家によって指図されるべきだと考えている。フェミニストは、上に立つのが誰であれ――それが女性である限り――支配の形態に関心はない。明らかに、これらイデオロギー屋どもは、権力の分配方法については重大な相違を抱えている。だが同じくらい明らかなのは、彼らが権力そのものに対して何の異議も持っておらず、我々を働かせ続けたいという点で一致しているということだ。

Black, Bob. The Abolition of Work. theanarchistlibrary.org/library/bob-black-the-abolition-of-work.

「労働主義者」とは、仕事を中心としたイデオロギー、制度、ライフスタイルを提唱する者すべてを指す。この中には、すべてのリベラル、右翼、民主社会主義者、社会民主主義者、中道派、共産主義者、ファシストが含まれる。これらはすべて、工業的で労働中心のイデオロギーであり、人間や他の動物たちを、組立ライン上で働かせ、市場のために資源を採取し、商品を生産し、生産力を神のように崇め奉る忠実な奴隷へと仕立てようとするものだ。彼らは皆、生産性を志向した工業的なレンズで世界を見ている。そのレンズの色合いが多少異なるだけだ。

ボブ・ブラックが1985年に「労働廃絶論」を書き、「一般化された歓喜と自由に依存し合う快活さの集団的冒険」を呼びかけたとき、彼は労働をより民主的に、成果主義的に、あるいは経済的報酬の面で魅力的にしようとしたわけではない。彼は「経済様」(賛美あれ)に投資して不労所得を得られるようになるまで頑張れと言っていたのでもない。彼は、労働そのものとの完全な決別を提案していたのだ。労働という構造をすべて解体し、魂を打ち砕くその構造を支える連中の脛を何度も蹴りつけて、それを放棄させようというのだ。

この点を、気の抜けた左翼どもは完全に見落としている。彼らは、アナーキズム的な概念が少しでも勢いを得るとすぐにそれを奪い、即座に去勢しようと身構える。だが、左翼が真の意味でアンチワークになることなどありえない。それは、左翼という存在が仕えるすべてのものに反する行為だからだ。

労働運動全体――労働組合、社会主義政党、アカデミック、そしてTwitterの理論家たち――すべては、自らの権力基盤を支える「労働というイデオロギー」の耐荷重壁を築くことに完全に献身している。労働者と職場が存在しなければ、果てしなく回り続ける「左 vs 右」の競争も存在せず、両陣営が権力と富の欲望を満たすために依存しているあらゆる仕組みが瓦礫となって崩壊する。反労働を「もっと大きな労働組合付きの労働」の意味に再定義しようとする左翼の運動家たちは、機会主義的なイタチどもだ。

同様に、反労働とは、より強力な福祉国家やユニバーサル・ベーシックインカムを作るための政策ではない。そうした政策は、労働=産業複合体を補助し、反乱への高まりを鎮め、「経済」なる略奪機構による生態系の収奪を延命させ、我々を生産性の管理者たちに今以上に依存させるだけだ。

反労働とは、我々を捕らえているオフィス、倉庫、農場、建設現場、レストラン、スーパーマーケットをすべてブルドーザーでなぎ倒し、それらを一つの巨大な輝く瓦礫の山に積み上げ、壮麗な焚き火を焚き、その炎の中で夜通し歌い、踊り、ファックし、百万台のコピー機とファイルキャビネットが発する甘い煙を吸い込むことだ。

反労働とは、我々がほぼ出生の瞬間から――母親の乳房から引き離され、彼女がオフィスに戻れるようにと保育園に放り込まれたその瞬間から――集団的に「正常」として刷り込まれてきた、途方もなくトラウマ的で倒錯した生き方を完全に拒絶することだ。

では、その焚き火が燃え尽き、我々が労働基準の存在を離れ、遊戯基準の存在へと移行した後、何が起きるのか?

ボブ・ブラック曰く:

遊びとは、受動的なものではない。確かに、我々は誰もが、職種や収入にかかわらず、もっと怠惰で弛緩した時間を必要としている。だが、雇用による消耗から回復すれば、ほとんどの人は行動actしたいと望むのだ。

反労働主義の核心とは、左翼的・マルクス主義的イデオロギーのガラクタ(私はこれを加速させた張本人をデイビッド・グレーバーだと見ている)を剥ぎ取った先にある、自らの束の間の存在を慈しみ、それを自分が望むことに費やす、という生き方にある。「偉大なる経済の神の脚本に従わないなら、お前を生贄として捧げるぞ」とボスが脅してくるようなことに時間を使うのではなく。

反労働とは、耳元でいつまでもがなり立てる労働主義者のマントラから自らを解放したいという切実な願望であり、「偉大なる経済様」によって与えられた従属的な役割を拒み、自らの道を切り開き、歓喜に満ちた遊戯を通して本当の意味での目的を見出すことなのだ。

ヘンリー・ミラーはいう:

世界が私から何か価値あるものを受け取れるようになったのは、私が社会のまじめな一員であることをやめて、「自分自身」になったときからだった。国家、国民、世界連合――それらはすべて、祖先たちの過ちを繰り返す個人の巨大な集合体にすぎなかった。人は生まれた瞬間からその歯車に巻き込まれ、死ぬまでそこに留まり続ける――そしてこの踏み車のことを「人生」と呼ぶことで何とか体裁を整えようとしていた。もし誰かに人生を説明してくれと言ったら、その本質は何かと尋ねたら、返ってくるのは虚ろな視線だけだった。人生とは、哲学者がだれも読まない本に書くものだった。人生の渦中にある者――「軛につながれた」荷馬たちには、そんな空疎な問いに費やす時間などない。「食ってかなきゃいけないだろ?」それがすべてだった。

Miller, Henry. Sexus (Obelisk Press, 1949.)

反労働とは、自分自身の条件で幸福を追い求めることだ。本当に望む生を生き、大衆社会の窒息するような要求に縛られることなく、個人として自ら選んで歩む人生。

反労働とは、上司や経済学者の権威を拒否することだ。たとえ隣の労働者より質素な食事やみすぼらしい家具で済ませなければならなくても。反労働とは、労働を基盤とした人生という不気味な構築物をありのままに見抜き、この地上での短い命が尽きる前に、自分の固有性を取り戻そうと手を伸ばすことだ。ネクタイを締めたイエスマンどもによる何十年もの硬直した洗脳の下に埋もれていた野生の闘志を解き放ち、自分が本当は誰なのかを見出すことだ。

反労働とは、我々の肉体と精神が朽ち果て、次はお前の番だと経済に捧げられるその前に、「偉大なる経済様」(その御名に栄光あれ)の神殿すべてを粉々に破壊し、その聖職者どもを皆殺しにする衝動だ。

反労働とは、友人よ、アナーキーなのだ。



ziqは現代アナーキズムの文脈で活躍する匿名の思想家・作家で、主に反労働・反文明・脱左翼(ポスト左派)の視点から文章を執筆している。彼が管理・創設した匿名掲示板Raddleの運営者でもあり、そこでのコミュニティ活動を通じて自作の論考が広がっている。