「個人主義的アナーキストと労働」ニック・フォード

ある構造、制度、活動、あるいは社会的パターンが、個人としての私たちの生活の大部分を占めているならば、それは個人主義的アナーキストとして注意を払うに値する。労働は、まさにそのように私たちの人生の大半を占めるものであり、ゆえに検討の対象となる。

ここで言う労働とは、努力を払うことや、自分が誰かのために作った産物の対価として報酬を受け取ることを意味しない。私が言う労働とは、ポスト左派アナーキストであるボブ・ブラックが論文「労働廃絶論」において述べた意味での労働である。すなわち、「労働とは、経済的または政治的手段、すなわち飴と鞭によって強制された生産である」。

「強制」という語の用い方に異議を唱える者もいるかもしれないが、これは国家資本主義のもとで私たちが持たされる選択肢の限定性を示しているにすぎない。大多数の労働者、とりわけ低技能労働者は、職場を選ぶ自由がほとんどなく、必然的にボスの下に置かれる。もちろん、技能を身につけ、より独立的になることは可能である。しかしそれでもなお、政府によって作り出された多くのコスト――通過しなければならない法制度、取得しなければならない免許など――に対処しなければならない。政府の介入が排除され、トップダウン型の企業が社会の中心的役割を果たさなくなった場合と比べれば、それが決して容易な過程でないことは明らかである。

この状況において、個人主義的アナーキストがまず気づくのは、個人が政治的配置によってのみならず、労働という体系的かつ制度的配置によっても押し潰されているという事実である。小売業であれ、飲食業であれ、あるいは巨大企業の上層部であれ、個人が押し潰されているという点は変わらない。これは主として、個人がどのように扱われ、どのように見なされているかに起因する。

もはや陳腐な言い回しと見なされているかもしれないが、企業文化の文脈において、人は歯車として扱われる。個々人はそれ自体として重要なのではなく、企業との関係における役割においてのみ重要視される。

これらすべての問題、そしてそれ以上の問題への解決は、国家と資本主義を廃絶することにとどまらず、労働そのものを廃絶することに依拠している。労働それ自体は有害ではなく、市場への介入によって構造化された労働のあり方こそが問題なのだと異議を唱える者もいるだろう。これは部分的には正しいが、同時に言葉の綾にすぎない。ボブ・ブラックが言うように、「労働を定義することは、それを蔑むことである」。労働が体系的かつ制度的配置として、主として少数の階級の利益のために、下層の個人に不利になるよう組織されているという事実から逃れることはできない。

確かに、労働を何らかの形で再構築することはできるだろう。たとえば、Googleが従業員に対して行っているように、より楽しいものにすることもできる。しかしそれは、仮面をかぶった労働にすぎない。コーディ・ウィルソンの言葉を借りて言えば、それは抑圧が進行している最中に吹く、より心地よいと感じる口笛にすぎない。なぜなら、そうした「良好な関係」を見つめても、依然として、個人が自分自身のものではない目的に従属させられ、そこに実質的な投資や発言権を持たないという事実が見て取れるからである。

ここでのトリックは、Googleが労働の外の生活と労働の内側の生活との境界を曖昧にしようとしている点にある。個人主義的アナーキストにとっても、反労働の立場にとっても、これほど陰険で潜在的に破壊的なものはないはずである。それは、個人に対して、自分がほとんど制御権を持たない環境にいるのではないかのような錯覚を保証するからである。

しかし個人主義的アナーキストは、こうした状況に抗わなければならない。より優しい顔をした国家(社会民主主義)であれ、より優しい顔をした資本主義(リベラリズム)であれ、より優しい顔をした労働(Googleなど)であれ、これらはいずれも、私たち個人が現状において著しく無力化されていないかのように感じさせるために、制度やシステムが被る仮面にすぎない。

そしてアナーキストである私たちは、それを見抜くべきである。個人の自律が真剣に受け取られていない状況において、個人が尊重されることはないと、私たちは知っている。再交渉が確実にできない契約や、相手方よりもはるかに発言権の少ない関係に置かれているならば、どうしてその個人の自律が尊重されていると言えるだろうか。

明確にしておくならば、Googleは労働者の負担を軽減しようとしているのではない。彼らは、Googleのために働くことと生きることとの区別を曖昧にしようとしているのである。企業と自己同一性を融合させるというこの発想は、国家と自己同一性を結びつけることに同様の恐れを抱くあらゆるリバタリアンにとって、懸念されるべきものである。

では、労働に対抗するために何ができるのか。個人主義的アナーキストは、インダストリアル・ワーカーズ・オブ・ザ・ワールド(IWW)やイモカリー労働者連合のような急進的労働組合に共感を示すべきであるが、同時に必要とあらば組合と決別する意志も持つべきである。仕事のペースを落とすこと、規則厳守闘争、病欠を取ることなどは、集団的にも個人的にも実行可能である。

しかし通常、こうした戦術は、特定の職場における条件を改善するためにのみ有効である。長期的には、「生産的遊び」や、自発的に選ばれた自律的活動によって満たされた代替的制度を構築していく必要がある。それは、必要性や政府の規制によってではなく、個人の自由な行為によって選択されるものでなければならない。協同組合や独立請負者の連合体は、その良い例である。

最も重要なのは、万能薬など存在しないという点を理解することである。私自身は、生活費を抑え、他者とコストを共有し、テクノロジーを活用することを、労働を最小化し、あるいは回避するための方法として実践しているが、これが誰にでも通用すると主張するつもりはない。自分に合ったものを選び、たまには一日休むとよい。来たるべき革命に向けて、私たちは皆、少しの休息を必要としているのである。