「ブッダとマックス・シュティルナー」デビッド・ダマート

原文:David S. D’amato「The Buddha & Max Stirner」


1844年、マックス・シュティルナー(これは、ラディカルなヘーゲル主義者ヨハン・カスパー・シュミットのペンネームである)は、『唯一者とその所有』という、驚くべき野心と偶像破壊性をもった著作を刊行した。

シュティルナーのこの書物は、今日の現代的思考や現代そのものと結びつけられているいくつかの哲学やイデオロギー――たとえば人間主義、自由主義、国家主義、社会主義――への、最も初期かつ包括的な批判のひとつを提示している。

しかしもしシュティルナーの代表作が実存主義やポストモダニズムを先取りしているのだとするならば、仏教思想はさらにシュティルナーを先取りしている。

仏陀の思想とシュティルナーの思想のあいだにある多くの実りある接点は、いまだ十分に探究されていない――それは、シュティルナーが不幸にも顧みられていないこと、そして仏教思想における世俗的で非超自然的な洞察もまた、ひどく過小評価されていること、この双方の理由による。


シュティルナーの思想が「幽霊」を祓うように、仏教もまた、私たちに「悟り」――自己が課した無知のヴェールの向こうから姿を現すもの――を追求せよと促す。

仏教によって提示される存在論と、シュティルナーのエゴイズムがもつ存在論は、驚くほど似通っている。

両者ともにこう主張する。すなわち、私たちが現実について与える記述――私たちのモデル、説明、哲学、さらにはいわゆる自然科学までも――は、現実を決して完全には捉えられず、それらはつねに何かを欠いており、還元不能なものを無理に還元しようと試みている、と。

私たちのモデルが、概念的には孤立させうるが、実際には孤立しえないような対象を切り出すとき、それは「そのモデルが対象としている現実の本性とは本質的に異質な、ある種の隔離と還元」を前進させることになる。

人間の認識は、現実の全体的複雑性を決して理解することができない。それどころか、私たちが現実をよりよく理解するほどに、それはますます奇妙なものとして姿を現す。


したがって、近代に対するシュティルナーの容赦なき批判の中心には、「固定観念」に対する彼の抵抗がある。固定観念とは、概念やイデオロギー、哲学的主張のことであり、それらを絶対的なもの・根本的なものとして信奉する態度のことである。

シュティルナーにとって、すべては永遠に流動している――恒常で不変なものは何ひとつない。

人間の思考体系は人間の精神と心理から生まれるが、それらもまた結局のところ主観的で、偶然的で、根拠なきものなのだ。

人間が自ら固定観念を創造したのだとすれば、私たちはそれに縛られる必要などない。

にもかかわらず私たちはそうしてしまう――そしてこのように、自らが作り出した恣意的な虚構や迷信を自らの上位に置くことこそが、精神的苦痛の主要因であり、真の意識や解放から私たちを遠ざけているのである。

ユヴァル・ノア・ハラリの話題作『サピエンス全史』で書かれている次の一節は、まさにシュティルナーの思想を描写していると言ってよい:

「これらのもののいずれも、人間が作り出し、語り継いできた物語の外側には存在しない。宇宙に神々はいないし、国家も、貨幣も、人権も、法律も、正義もない。それらはすべて、人間の共通の想像力のなかにしか存在しない。」

ハラリが言う「虚構fictions」とは、シュティルナーの言う「幽霊」である。
それは、特別に知能が高い動物たる人間が、自分自身や他者に語り聞かせる物語である。

そして、それらが私たちの心の中にしか存在しないにもかかわらず、そうした物語は私たちの上に君臨しつづける。

それこそが、ハラリの言葉を借りれば、「歴史が生物学から独立宣言した」方法なのである。


仏教もまた絶対的なものを否定し、いかなる自然現象をも定義づける永続的実体は存在しないと主張する――すなわち、宇宙に存在するすべてのもの、かつて存在したもの、そしてこれから存在するものは、すべて無常であり変化している。

この無常(anicca)という考えは、苦(duḥkha:「満たされなさ」「不安」などとも訳せる)および無我(anattā)と並ぶ、仏教の三法印のひとつである。

無我というのは、我々類人猿の心が現実を知覚するやり方に照らしてみると、特に驚くべき、そして困難な概念である。

仏教徒はこう主張する――個々の人間の苦しみの強力な原因のひとつは、彼女自身が無限の宇宙の尺度においてちっぽけで取るに足らない存在であるという疑念、それだけではなく、彼女の存在自体が幻想であり、意識そのものが、より根本的な活動の大海に溶けていくものであるという、絶えず心を蝕み続ける疑念である。

我々が我々である以上、我々は自分が特別な存在であると信じることを望む(そうであることは、必要でもある)――個人として、そして種として。

仏教はその点においてラディカルである。なぜなら仏教は、人間には魂も永続的実体もないと主張するからである。

そして、意識あるいは魂を具体的な実体として信じることは、対象を物象化の誤謬(reification fallacy)に耽ることであると説くのだ。


一見すると、シュティルナーのエゴイズム――それが「単一の自我the sole ego」や「唯一者the unique」に焦点を当てていることから――は、仏教の無我という概念と両立しないように思えるかもしれない。

しかし、より注意深く検討すると、シュティルナーはその考えに非常によく似たものを語っていることがわかる。彼は、自らの「唯一者」という概念でさえ、現実の本質を記述するには根本的に不完全である。。

シュティルナーは、「名はそれを名付けない」と述べている。つまりそれは言語に還元できないということだ。

「シュティルナーが語っているのは言葉であり、思考であり、概念である。だが彼が意味しているものは、言葉でも、思考でも、概念でもない。彼の語ることばは意味ではなく、彼の意味するものは語ることができないのだ。」
(訳注:たぶんデリダ「マルクスの亡霊たち」の記述)

これにより明らかなのは、シュティルナーが「唯一者」を根本的なものとして、あるいはなんらかの真の本質を宿すものとして捉えていないという点である。

きわめて似た方法で、ブッダとシュティルナーは、個人というものを、現実――より正確には現実知覚――が流れ出る源泉として描いている。(ここで現実ではなく「現実知覚」であるということが決定的に重要である)

まず、ブッダの言葉を見てみよう。「我々が何者であるかは我々の思考とともに生じる。我々の思考によって我々は世界をつくる。」

次にこれを、シュティルナーの定式と比較してみるとよい。「私は、空虚emptinessという意味での無nothingではない。私は創造的な無であり、私自身という創造者が、あらゆるものを創造する無the creative nothingである。」

ここで、この二人の革命的思想家たちは、二千年以上の時を隔てながらも、ある急進的で、潜在的には恐るべき結論にたどり着いている。それは、あらゆるものの下にも、あるいはその核心にも、媒介されていない純粋で真なる現実など存在しないということだ。むしろ、あらゆるものは観察者によって定義されており、したがって、非常に現実的な意味において、創造されているのだ。

我々がクオリア(主観的経験)を体験するとき、我々の精神は「脳内の複雑な活動パターンを、単純な現象的性質として誤って表象している」と、哲学者キース・フランキッシュは説明している。

私が幻想であると考えるのは、現象的意識である。なぜなら、科学は私たちの脳の中にも、外の世界にも、いかなる質的性質も見出さないからだ。あなたの脳内の原子は色を帯びておらず、色彩豊かな内的イメージを構成してもいない(そして仮に構成していたとしても、それを見る内なる眼は存在しない)。それらの原子は、他のいかなる質的性質も持っていない。内的な音も、匂いも、味も、痛みも存在せず、仮にそれらが存在したとしても、それを経験する内的な観察者などいないのだ。

物理学、特に量子力学における発展は、私たちがある意味で現実を創造している(あるいは少なくとも、観察するだけで現実に影響を与えている)という考えに、科学的な信憑性を与えているようにも見える。
たとえば私たちは、素粒子のふるまいが古典物理学の法則をあざ笑うかのようであり、ランダムに動いているように思えることがわかってきた。

想像を絶する奇妙さを宿した「現実」の、より表象的なイメージに近づけば近づくほど、私たちは、ブッダとシュティルナーが最も深く、最も文字通りの意味において正しかったのではないかと感じはじめるだろう。
意識とは同時に幻想でありながら、観察可能な現実に影響を及ぼしうるものでもあるのかもしれない。

実際、ある物理学者たちは「量子から古典的状態への移行には、意識的な観察が不可欠な要素である」と主張しており、さらに進んで「人間の精神が、量子測定の結果における確率に能動的な影響を与えている」と提案する者すらいる。

これらは、疑いようもなく物議を醸す主張である。
量子力学は依然として極めて不可解なものである、多くの技術が量子力学の応用に依拠しているにもかかわらず。
我々は計算が機能していることは知っているが、その計算が何を記述しているのかは分かっていない――すなわち、我々が実際には何を語っているのかが分かっていないのだ。

それが何であれ、それはどうにも主観的かつ個人的なものへと収斂していくように思われる。
これはおそらく不安を誘う事実である。なぜなら私たちは、確かな何かをつかみたいと願っているからだ。ある理論物理学者たちは、そもそも根本的な法則など存在しないのではないかと提案する。
そして、物理法則が根本的に見えるということ自体が、むしろ我々の立場からそう見えているだけであり、本当は変化しつつあるものが、一時的に静止して見えるだけかもしれない。ちょうどエベレストが、まるで時の流れをあざけるかのように、じっと静止して見えるのと同じように。

我々は、儚く短命な生物であるがゆえに、現象をそのように観察している。
この宇宙で進化した私たちは、この世界についてほんのわずかしか知ることができないという運命を免れないのだ。

実際、「自然法則が静的で永遠に固定されたものである」としたなら、それはむしろ奇妙であり、エントロピー的で常に流動する現実の性質とは調和しない、とすら考えることができるだろう。

よりありうるのは、以下のような抽象的ではあるが妥当性のある考えである――すなわち、あらゆるものの周縁において絶え間ない変化が起きており、空間・時間・そしてすべてを支配する法則は創発的な、ゆえに相対的な現象であり、あらゆるものは他の何か、より以前にある何かによって規定されているということである。

シュティルナーのエゴイズムと仏教は、内的覚醒への強調という点でも類似している。それは「人間同士の葛藤を終わらせ、真の幸福に至るには、洞察と智慧に基づく個人的変容のみが必要である」という考えである。したがって、もしシュティルナーのエゴイズムと仏教に政治的性格があると言えるとすれば――そのことは議論の余地があるにせよ――それは「個人の思いやりを高め、非暴力的な社会行動を通じて社会変革を目指す」という性格である。

仏教僧K・スリ・ダンマナンダが述べるように、仏教的な生き方は「新たな政治制度の創出や政治的枠組みの確立を目指すものではない」ことは明白である。

ある種のアナーキズムは仏教の自然な社会的補完物――実際には含意――である。このふたつの哲学はともに苦しみとその止滅に関心をもち、政治を制度化された暴力として退けている。

人間の苦しみ(あるいは不安、あるいは一般的な不満足さ)の事実は、仏教の四つの聖なる真理(四聖諦)の一つであり、仏教徒たちは、苦しみを減らし、和らげる手段として、非暴力を特に重視する。実際、仏教を実践する人々の中には、非暴力こそが「ブッダの教えの本質」であると考える者もいる。「非暴力は」、ダライ・ラマの言葉によれば、「内なる平和の反映である」。

仏教よりも哲学的な射程や目標が狭いとはいえ、アナーキズムも暴力、支配、搾取に反対する。それらはいずれも危害や苦しみを引き起こすからである。

要約すれば、アナーキズムは、人間社会から恣意的で強制的な権威とヒエラルキーを取り除くことを望んでいる。

アナーキズムはしたがって、権威や肩書によって敬意を払うものではなく、すべての人を愛と尊厳に値する存在として扱うよう促す、根本的に平等主義的な思想である。

仏陀の教説もまた、徹底した平等主義的性格を有しており、カースト制度を重要視せず、知慧に到達した者すべてに高貴の地位を付与する点に特徴がある。

アナーキズムは、産業化および近代国民国家に対する反動として登場した思想であるがゆえに、資本と国家という制度に特段の関心を払ってきた(これらは筆者が他所で「近代性における二つの巨大なメタ制度」として論じたものである)。

しかしながら、アナーキズムの理論的主張や批判的洞察は、これら二制度に限定されるものではなく、アナーキストたちは新たな社会的文脈に即して、権力と特権に対する批判の射程を拡張し続けてきた。

仏教的アナーキズムは、状況性を重視し、弁証法的な思考方法を採用し、政治行動や革命よりも、むしろ個人的な覚醒および正しき行為に価値を置く可能性が高い。

仏教的アナーキストは、各種の組織形態が相互に均衡を保ちつつ共存するような社会的・経済的秩序の形成を志向するであろう。

21世紀前半の現在において、ほぼすべての人びとは、地域的・個別的な方向――すなわち、人間のスケールに適合した社会的・経済的編成へと向かう進化――を、一種の冒涜、少なくともある種の倒錯的な退行と見なすであろう。

「進歩」と「成長」という名で呼ばれる偉大なる神々は、普遍的なものとされており、その権能には限界がない。

人間存在は、生物圏ならびにその先にある世界において、聖別された支配者としての位置づけを与えられている。

しかしながら、E. F.シューマッハの指摘するように、「単純性と非暴力とは、明白に密接な関係にある」。

現在において、より単純で慎ましやかな生の形態――すなわち、生命の相互依存性に対してより繊細に応答し、人間存在の本性および有限資源の消費に関する自然的制約を現実的に捉えようとする生の形態――は、しばしば「退行」であるか、あるいは実在しなかったエデン的過去への郷愁として誤解されがちである。

仏教に霊感を受けたアナーキズム的構想は、繁栄や高度技術に対して本質的に敵対するものではない。

それはむしろ、人類が現在、責任ある仕方では制御し得ぬ程の力を手中に収めてしまっていること、そしてその権力の行使に際しては、より内省的かつ意識的なアプローチが要請されていることを示唆するのである。

そのような意識的アプローチは、我々がこの惑星においてもつ将来を、過度に軽視するような態度であってはならない。

なぜなら我々は、想像以上に「引き返せない地点」に近づいている可能性があるからである。


David S. D’Amatoは、アメリカのリバタリアン系弁護士・政策アナリスト。『CounterPunch』や『Center for a Stateless Society』などに寄稿し、国家、資本、警察、監獄など権力装置への制度的批判を展開。現代の自由主義とアナーキズムの交差点に立ち、実践的・政策的視点から思想的議論を行っている。