「力こそ正義」序文 ラグナー・レッドビアード

原文:Ragnar Redbeard「Might is Right」(1927年版)


機会

人間の機会が尽きることはない――この世界に、(自分の味方ではない)他の人間たちが、何百万エーカーもの土地と何千トンもの金塊を有しているかぎり。

現代の王や大統領、大祭司、百万長者たちが守りを固める宝物殿と鉄壁の神殿は、人類史上かつてないほどの富を内蔵している。

そこには銀とダイヤモンドと黄金が、巨万の蓄えとしてうず高く積まれている。

ここにこそ、まさに空前絶後のスケールでの機会がある。ここにこそ、来たるべき時代において、カエサル、ネブカドネザル、ナポレオンたちが追い求める目標がある。

すべては、すでに整えられている――古の時代と同じように。

カエサルは、エジプト、ギリシャ、ガリア、ローマの財宝を奪い取った。ナポレオンは、ヴェネツィア、ウィーン、マドリード、ベルリン、モスクワの金庫を荒らし尽くした。ロンドンだけが、かろうじて彼の手を逃れた。

ネブカドネザルは、ユダヤ人が資産を預けていたシオンの神殿を略奪し、ヤハウェの金の器でビールや葡萄酒を飲み干した。

ナポレオン、カエサル、ネブカドネザル! 彼らは三人とも偉大な人間だったではないか? そして彼らの偉大さとは――機会をつかんだという、その一点に尽きるのだ。

爾余はすべて誤りである

自然界とは戦争の世界である。自然な人間とは戦士である。自然の法とは牙と爪である。爾余はすべて誤りである。戦いの状態があらゆる場所に存在している。我々は永続する闘争のただ中に生まれ落ちる。それは我々の遺産であり、過去の世代の遺産でもあった。この「闘争状態」は、聖フランチェスコの神聖なる文句や、クロポトキンやトルストイの柔らかく欺く教義によって覆い隠されることはあっても、最終的にはいかなる人間にも、いかなる人間の部族にも回避されることはない。それはそこにある――そしてそこに留まり続ける。そして各人は(望もうが望むまいが)それと対決せねばならない。それはすべてのものを支配する。すべてのものを統御する。すべてのものに君臨し、そして以下の者たちすべての運命を定める――すなわち、警察化された民衆、国際的に規制された平穏、そして国家により組織された工業主義……これらを、かくも喜ばしく、祝福され、神聖なるものと夢想する者たちを。

勝者こそが黄金を得る

世において、美徳は報われる。これを忘れるな。自然法は判断を誤らない。その決定は、たとえ恐るべきものであっても、真実であり正義である。勝者は常に金と土地を手に入れる。最も美しい乙女たちや、栄光の賛辞もまた、彼のものである。そして――なぜそうであってはならぬのか? なぜ人生の悦びが、敗者や臆病者に与えられねばならぬのか? なぜ戦利品が、戦いを知らぬ者のものとなるべきなのか? それは狂気であり、まったくもって不自然かつ不道徳である。

 

磔刑像を見よ、それは何を象徴するか?
  蒼白なる無能が木にぶら下がっている。

  聞け、戦士たちの足音が丘を越え
  谷を渡り、野を抜けてやって来る
  時代を超えた鬨(とき)の声とともに
  反逆の世界が再び目覚める

  剣を鋤(すき)に鍛え直す者は
  苦き軛(くびき)の下に汗を流すことになろう
  自由に生まれ、恐れを知らぬ者たちは
  戦いの一撃を繰り出さねばならぬ


偉大なるカエサルと苛烈なるハンニバルの戦いにおいて、ベルシャザルの時代において、ファラオたちの時代において、リエンツィと大胆なるローランの時代において――すべての旗は、黄金のために翻っている。


力に対しては力である。忘れるな、陸においても海においても、人は人と争い、金は金と争い、知恵は知恵と争う――そして、すべては勝者のものとなる。

〚訳文ここまで〛


画像
Might is Right:力こそが正義であり、道徳や平等は弱者の幻想にすぎないと主張する過激書。1890年代に匿名で出版され、アナーキストや個人主義者の一部に熱烈に支持される一方、ファシズムや優生思想との親和性から強い批判も浴びた。今日もカルト的に読み継がれている奇書。