なぜ私は万引きを愛するか

副題:(大企業からの)

原文:Why I Love Shoplifting - From big corporations(2000)

その瞬間の高揚感に勝るものはない。店を出るとき、ポケットに店の商品が入っている──重荷が取り払われ、束縛から解放されたという感覚。
あらゆるものがすでに誰かの所有物であるこの世界。生存に最低限必要なものを手に入れるために、自分の人生を労働に売り渡して金を得るしかない。自分のまわりの世界には理解も支配も及ばない。私の必要、私の良い生になどまるで関心を払わない力が満ちている。
万引きは、そのような世界から、自分自身のために小さな一片を刻み取る手段――これほどまでに自分に影響を与えてくる世界に、やりかえす手段なのだ。

お金を払って何かを買うときに感じる感覚とはまったく異なる。
金を払うとき、私は取引をしている。
自分の労働、時間、創造性によって得た金を、企業がお金以外では絶対に分け与えてくれない商品やサービスと交換している。
ある意味で、これは暴力に基づく関係だ。相互の敬意や配慮によってではなく、相互に対して行使しうる力に基づいて交換を交渉している。
スーパーマーケットは、こちらがパンを買わなければ飢えることを知っている。だからそれを1ドルで売ることができる。
しかし彼らは、4ドルでは売れないことも知っている。そうすればこちらが他の場所へ行ってしまうからだ。
したがって、このやりとりは愛ではなく、暗黙の脅しによって成立している。
そして、私は彼らから何かを手に入れるたび、自分の何かを差し出さざるを得ない。

万引きをするとき、すべてが変わる。
もはや、自分の良い生になど一切関心を払わないような、顔のない、非人間的存在との交渉ではなくなる。
その代わりに、私は必要なものを、何も差し出すことなく手にする。
強制的な交換に押し込められているという感覚は消える。周囲の世界が自分の人生を決定づけることにおいて、何の支配力も自分はもたないという感覚も消える。
買った本が与えてくれる喜びが、それを買うために費やした2時間の労働に見合っているのかどうかを心配する必要もなくなる。
こうした点、そして他にも数え切れないほどの点において、万引きは自分に解放感と力を与えてくれる。
ここで、万引きがもうひとつの生き方として何を提供しうるのかを考えてみよう。

万引き者は、自らの人生の一部を交換することではなく、リスクをとることでその「賞品」を勝ち取る。
彼女にとって人生とは、生存のために時給7ドルか8ドルで売り渡さなければならないものではない。
それは自ら奪い取り、自らのものとして主張するがゆえに、自分のものとなるものである。
法律を守る消費者とはまったく対照的に、彼女が商品を得る手段そのものが、それら商品と同じくらい刺激的である。そしてその手段は多くの点で、より称賛に値するものでさえある。

万引きとは、交換経済への拒絶である。
それは、人びとが自分の労働や資本をどれだけ効果的に他者と交換できるかによって、食べること、生きること、死ぬことが決まるという考えを否定する行為である。
すべてのものに金銭的価値を割り当てられるという前提への否定である。
たとえば、ひとかけらのおいしいチョコレートを口にすることに50セントきっかりの価値があるとか、ある人の1時間の人生が他のだれかのそれよりも0ドル高いとされるような考え方を否定するのだ。
それは、資本主義システム──労働者が自らの労働によって生み出した商品を、資本家の利潤のために買い戻さねばならないというシステム──を受け入れない、という明確な拒否である。

万引きは、現代企業を特徴づける、忌まわしい要素すべてに対する「NO」である。
それは、数多の搾取的企業が、企業利益の名の下に従業員に強いる低賃金や福利厚生の欠如に対する、不満の表明である。
それは、消費者にさらなる購入を強いるために、意図的に壊れやすく、またはすぐに摩耗するように設計された低品質の商品に対して、代金の支払いを拒むことである。
それは、商品を製造し、新しい店舗を建てる過程で、無慈悲に行われる環境破壊に対して資金を提供することの拒否であり、地域の個人商店を倒産に追い込むような企業への支援を拒むことであり、食肉および乳製品業界における動物の殺害、果物や野菜の産業における移民労働者の搾取の受容を拒絶する行為である。
万引きは、現代の消費者が抱える疎外に対するひとつの発言である。
「もしも我々が、千マイルも離れた場所で作られ、私たちにはその実態が何ひとつ分からないような商品しか見つけられず、しかもそれしか手に入れられないのだとしたら──私たちは、その代金を支払うことを拒否する」

万引き者は、現代広告における冷笑的なマインドコントロール戦術に対して攻撃を仕掛ける。
今日のコマーシャル、看板、さらには店内のレイアウトや商品陳列に至るまで、すべては心理学者によって設計されており、潜在的に消費者を操作して商品を購入させることを狙っている。
企業は、大規模な広告キャンペーンを通じて消費の呼びかけを人々の意識にすり込もうとし、そのうえで、自社商品を「ステータス・シンボル」として位置づけようとする──特定の社会層にとっては、それらを所有しなければ尊敬を得られないような仕組みが形成される。
こうした操作を前にして、法を守る消費者に残された選択肢は二つしかない。
すなわち、賃金労働者として自らの人生を切り売りして金を稼ぎ、それで商品を買うか、あるいはそれを買わずに済ませ、結果として社会的な嘲笑や内面的な欲求不満を招くか、である。
だが、万引き犯は「第三の選択肢」を独自に作り出す。
彼女は、欲望を抱くよう仕向けられた商品を、支払いもせずに手にすることで、企業自身にその宣伝費とマインドコントロール戦略のツケを払わせるのだ。

万引きは、現代企業のあらゆる忌まわしい特徴に対する、もっとも効果的な抗議である。
なぜなら、それは単なる理論的主張ではなく――実践であり、行動だからだ。
言葉による抗議はいくらでも無責任な企業活動に対して声を上げられるが、ほとんどの場合、実効性を伴わない。
その点、万引きは、抗議の意思表示を(たとえ秘かにであれ)示すと同時に、企業そのものに実質的な損害を与える。
万引きはボイコットよりも優れている。
なぜなら、ボイコットは企業に利益を与えないに過ぎないが、万引きは企業に直接的な損失を与える。
さらに、万引き犯自身は、時に生存に必要な商品を手にすることもできるからだ。
そして、あまりに多くの企業が互いに連携し、多国籍企業が数多くの許しがたい行為に関与している今日では、万引きは、より一般化された抗議となる。
それは経済への一切の現金投入を拒否する行為であり、したがって万引き犯は、自分の金がどのようなかたちでも、忌み嫌う企業の手に渡ることがないと確信できる。
おまけに、彼女はそうした企業のために働く時間も減らせるのだ。

では、企業の中で働く人びとはどうなのか? 彼らの幸福はどうでもいいのか?
まず第一に、株式会社は伝統的な個人商店とは異なる。
それは所有者とは切り離された財務的実体として存在している。したがって万引き犯が盗む相手は人間ではなく、非人間的存在──法人という構造体である。
第二に、多くの労働者は、企業の利益の大小よりも「企業がどこまで安く人を使えるか」によって決まる固定給(たとえば最低賃金)で雇われているため、万引きによって、その企業で働く大多数の人々が直接的な損害を受けることはほとんどない。
損する可能性があるのは株主たちだが、彼らはたいてい、万引き者よりもはるかに裕福である。
そして、現実的に考えても、万引きのキャンペーンごときで、そうした富裕層が貧困に追い込まれるような事態はまず起こりえない。
それに、現代の企業は、あらかじめ「万引きロス」のための予算を用意している。
つまり、企業自身がすでに認めているのだ――自社や資本主義経済に対する不満が世の中に十分すぎるほど存在するため、人々が容赦なく盗むことを前提として商売しているのだと。
この意味で、万引き犯は社会の中で、自分の「役割」を演じているにすぎない。CEOと同じように。
さらに重要なのは、これらの企業があまりにも冷笑的であるために、自分たちのやり方が多くの顧客(さらには従業員さえも!)を、盗めるものは何でも盗もうという気持ちにさせていると知りながら、それでも平然といつも通りに商売を続けているということだ。
そうした企業が、それでもなお同じように商売を続けるというのであれば、どれだけ多くの人びとに盗まれようが、それは彼ら自身が蒔いた種というべきだろう。
もし彼らが、自分たちのやり方がどれほど多くの人びとを疎外しているかを承知のうえで、それでもなお同じやり方で商売を続けようというのなら、盗まれ続けることに驚いてはならないのだ。

万引きは、「自由市場」という弱肉強食の競争社会で生き延びるための手段である以上に、企業による不正への抗議である以上に、この世界と人生に対する、まったく別の姿勢の表明でもある。
万引き者は、資本主義と産業によって征服された環境の中で、どうにかやりくりしている。そこにはもはや、資源を採取できるような自然の世界は存在せず、あらゆるものが私有財産となってしまっている。しかしながら、彼女はそれを受け入れず、またそれに伴う不条理な生活様式も受け入れない。
彼女は、現代における生存の問題に対して、古代の方法を適用することで、自らの命を自らの手に取り戻す。
彼女は都市の中で、「狩猟採集民」として生きているのである。
このようにして彼女は、テクノロジーと帝国主義と、「自由」市場と呼ばれる非合理な要求によって世界が服従させられる以前に、遠い祖先たちが生きていたような生き方をすることが可能としている。
そして彼女は、その行動のなかに、挑戦と報酬を見出すことができる――それは、今日の私たちのほとんどがすでに失ってしまったものである。
彼女にとって、この世界は先史時代の人類にとってそうであったように、危険に満ち、そして刺激的である。毎日が新たな状況であり、新たなリスクと対面し、絶えず変化する環境のなかで、機転と才覚によって生きる。
一方で、法に従う消費者にとっては、職場での毎日は昨日とよく似ており、その生活には、意味や目的と同様に、「危険」もまた決定的に欠けている可能性が高い。

万引きという行為は、抽象的な「倫理」やその他の観念的構築物──その大半はすでに死に絶えたキリスト教の残滓にすぎない──よりも優先して、直接的で身体的な欲望(空腹のような)を肯定することである。
万引きは、商品や市場全体が、あたかも神話的な力をもって消費者の人生を支配しているかのような、その幻想をはぎ取る。
商品が力づくで奪われたとき、商品のその本性が露呈される。それはただの「資源」にすぎず、それは企業が他のすべての人びとの犠牲のもとに力で独占してきたものだということが明らかになる。
万引きは、われわれを物理的な現実の世界へと引き戻す。
そこでは、物は現実として存在し、重さや味、手に入れやすさといった物理的性質にすぎず、「市場価値」や「利益率」といった迷信的な属性を帯びることはない。
万引きは、われわれにリスクを引き受けさせ、人生を直接的に体験させる。
たしかに、万引きそれだけでは工業社会や資本主義体制を打倒するには至らないだろう。
だが、その一方で、万引きは最良の抗議手段のひとつであり、自己解放の手段でもあり、何より実践的な行為である。

  世界の万引き犯たちよ、団結せよ!