「アナーキズムと個人主義」ジョルジュ・パラント

原文:Georges Palante - Anarchism and Individualism(1909年)、読みやすさを考慮し、改行を追加した。


アナーキズムと個人主義という語は、しばしば同義語として用いられてきた。互いに大きく異なる思想家たちが、ある時はアナーキストと、またある時は個人主義者と、無造作に形容されてきた。こうして我々は、シュティルナー的アナーキズムあるいは個人主義、ニーチェ的アナーキズムあるいは個人主義、モーリス・バレス的アナーキズムあるいは個人主義といった具合に、両者を区別せずに語る。

しかし、場合によっては、この二語の同一視は不可能であると見なされることもある。我々はプルードン的アナーキズム、マルクス的アナーキズム、アナーキスト的サンディカリズムなどとは普通に言うが、プルードン的個人主義、マルクス的個人主義、サンディカリスト的個人主義などとは言わない。また、キリスト教的アナーキズムやトルストイ的アナーキズムとは言えるが、キリスト教的個人主義、トルストイ的個人主義とは言いがたい。

他方で、この二語を一体化し、「アナーキスト的個人主義」として語る場合もある。この表現によって、M・ハッシュはアナーキズムそのものとは区別される一種の社会哲学を指し、それを代表する思想家として、ゲーテ、バイロン、フンボルト、シュライエルマッハ、カーライル、エマーソン、キェルケゴール、ル・ナン、イプセン、シュティルナー、ニーチェを挙げている。この哲学は、偉人崇拝および天才の神格化として要約される。

だが我々としては、このような教義を指して「個人主義的アナーキズム」と呼ぶことが適切かどうか、疑問を抱かざるを得ない。語源的な意味においても、アナーキストという形容を、ゲーテやカーライル、ニーチェのような思想家に当てはめることは困難である。というのも、彼らの哲学はむしろ階層的秩序の観念や価値の調和的配列といった思想に支配されているからである。

さらに、「個人主義者」という形容も、上述のすべての思想家に等しく適用できるものではない。たとえば、エゴイスト的・虚無主義的・反理想主義的なシュティルナーには妥当であっても、ヘーゲル派で楽観主義的かつ理想主義的であるカーライルの哲学には、それを適用するのは難しい。彼はむしろ、明らかに個人をイデアに従属させている。

このようにして、アナーキズムと個人主義という二語、ならびにそれらが指し示す思想体系や感情傾向に関しては、明らかな混乱が支配している。我々はここで、個人主義という概念を明確にし、それをアナーキズムと区別する形で、その心理的・社会学的な内実を定義してみたいと思う。

個人主義とは、個人と社会のあいだにある深く、かつ解消不能なアンチノミー(二律背反)を感じ取る感性である。個人主義者とは、その気質により、自らの内的本性と社会的環境とのあいだに存在する不可避の不調和を、特に鋭敏に感じ取りやすい者である。さらに彼は、生の中で、そうした不調和をあらわに認識せざるをえないような決定的な出来事に出会っている。それは、突発的な暴力であるかもしれないし、持続的な経験によるものであるかもしれない。だがいずれにせよ彼にとっては、社会が個人にとってつねに拘束・屈辱・悲惨を生み出す存在であり、人間の苦痛を不断に生成し続けるメカニズムであるという事実が、明白になっている。

個人主義者は、自らの経験と生の感覚に基づき、個人と社会とのあいだに調和が訪れるような未来社会の理想を、ユートピアとして却下する権利を自覚している。社会が発展するほどに、悪は減少するどころか、むしろ悪は強化される。社会の機構がますます専制的になるなかで、個人の生は複雑化し、困難を極め、さらに苦しみに満ちたものとなる。科学ですら、社会によって個人に強いられた生存条件についての意識を深めることによって、知的・道徳的視野を明るくするどころか、むしろそれをいっそう暗転させる。Qui auget scientiam auget et dolorem(知識を増す者は、悲しみもまた増す)

個人主義とは、本質的には社会に対するペシミズムである。もっとも穏当な形態においてすら、それはこう認める――社会生活が絶対的な悪ではないし、個人性を完全に破壊するものでもないにせよ、個人主義者にとっては少なくとも制限的で抑圧的な条件であり、必要悪であり、最終手段であると。

このような描写に応える個人主義者たちは、不機嫌な小集団を成しており、その反抗的、諦念的あるいは絶望的な言葉は、楽観主義的な社会学者たちによる未来へのファンファーレとは鮮やかなコントラストをなしている。それはヴィニーの言葉――「社会秩序はつねに悪である。時にはそれは耐えうるものである。悪と耐えうるものとのあいだにある争いに、一滴の血も流す価値はない」――であり、社会生活を人間的苦痛と悪の極致と見るショーペンハウアーである。

そして知的・道徳的唯我論に立ち、社会的理想主義の欺瞞と、あらゆる組織化された社会が個人に対して脅かす知的・道徳的硬直に絶えず警戒するシュティルナーであり、ある時には、自由なる精神的本性の制限と束縛として社会を捉える苦悩に満ちたストア主義のアミエルである。そして「自然の学生」として人間活動の通常の道を逸れ、「放浪者」となることを決意し、独立と夢とを礼賛した、エマーソンの過激な弟子デイヴィッド・ソローである――「この放浪者の一瞬一瞬は、多くの職業を持つ人間の全生涯よりも多くの労働で満たされている」――そして、社会や進歩に対して悲観的な観念を持つシャルメル=ラクールである。ある時には、おそらくタルドであり、彼の言葉に表れているような人間嫌いの色を帯びた個人主義である。

「模倣の流れにもその堤(せき)が存在しうるし、その流れが過度に展開されることによって、社会性への欲求は弱まる、あるいはむしろ変質し、一種の一般的な人間嫌いへと変容する可能性がある――これは、ちなみに、穏やかな商業的流通や、必要最小限にまで縮減されたある種の産業的取引の活動とは十分に両立しうるが、何よりも、われわれ各人のうちにある内なる個人性の独自な諸性質を強化するには、極めて適したものである。」。

さらには、美的態度やディレッタント的趣向によって、激烈な反抗や落胆したペシミズムの響きに反感を持つようなモーリス・バレスのような人々においてさえ、個人主義は「個我と一般我との調和が存在しないという不可能性」の感情としてあり続けている。それは、第一の「我」(個我)を解放し、それが持つ最も特異なもの、最も精緻に掘り下げられたもの――細部においても深みにおいても――を涵養しようとする決意である。バレスは言う。

「個人主義者とは、解放できない真の我への誇りゆえに、自分が他の人間と共有しているものを絶えず傷つけ、汚し、否定する者である……われわれのような種の人間たちの尊厳は、世界が知らず、見ることもできない、ある震えにのみ、排他的に結びついており、われわれはそれを自己のうちに増幅させねばならない」。

これらすべての人々に共通するのは、われわれの生きることが強いられている組織化された社会に対して、その画一化の規則、単調な反復、隷属的制約に対して抱く感受性の姿勢である。それは敵意と不信から、無関心と軽蔑にまで及ぶ。それはそこから逃れ、自己のうちに退くことを欲する願望である。何よりもそれは、「我の唯一性」、すなわち、あらゆる社会的影響にもかかわらずなお我が保持しうる、抑えがたく、浸透しえぬものの深い感覚である。それは、タルドの言う「人々の在り方、思考、感情の仕方における深くして儚い特異性、その一度かぎりで瞬間的なもの」の感覚にほかならない。

この態度がアナーキズムとどれほど異なるかを示す必要があるだろうか? ある意味において、アナーキズムが個人主義から発していることは疑いない。実際、それは現状の秩序に抑圧され、あるいは不利益を被っていると感じる少数者による反社会的な反乱である。しかしアナーキズムは、個人主義の第一段階にすぎない。それは信仰と希望の段階、勇敢で成功を信じた行動の段階である。個人主義は、我々が見てきたように、その第二の段階において社会的ペシミズムへと転化する。

この信頼から絶望への、楽観から悲観への転換は、ここでは多分に心理的気質の問題である。社会的現実との接触に容易に傷つき、すぐに幻滅してしまう繊細な魂がある。たとえばヴィニーやハイネのような人々である。こうした魂は「感受的(sensibles)」と呼ばれる心理学的類型に属すると言える。彼らは、個人を抑圧するかぎりでの社会的決定論を、とりわけ苦痛で圧迫的なものとして感じる。

しかし他方で、幾多の失敗にも屈せず、経験が示す厳しい事例にも動じず、自らの信念に揺るぎない魂も存在する。こうした魂は「能動的(actives)」な型に属する。バクーニン、クロポトキン、ルクリュといったアナーキズムの使徒たちの魂がそうである。彼らの理想に対する動じない確信は、おそらく知的・情緒的な鋭敏さの欠如に依存しているのかもしれない。疑念や落胆の理性が、彼らにとってはそれほど強く響かず、彼らが構築した抽象的理想を曇らせたり、個人主義の最終的かつ論理的な帰結、つまり社会的ペシミズムへ導くには至らないのだ。

いずれにせよ、アナーキズムの哲学が楽観主義に貫かれていることは疑い得ない。この楽観主義は、あの血のように赤い表紙の書物たち──行為によるプロパガンダの担い手たちpropagandists by the deedの読みもの──によって、多くの場合、単純化され、素朴化されて広められている。ルソーの楽観主義の影が、このすべての文献の上に漂っている。

アナーキズムにおける楽観主義とは、社会の不調和、個人と社会のあいだに現状として存在する矛盾が、本質的なものではなく、偶発的かつ一時的なものであると信じることである。それらはいつか解決され、調和の時代に取って代わられるだろうという信念である。

アナーキズムは、互いに補い合うように見えて、実際には相互に矛盾する二つの原理に依拠している。ひとつは、厳密な意味で個人主義的あるいは自由主義的な原理であり、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって定式化され、スチュアート・ミルが『自由論』の冒頭に掲げたエピグラフに採用したものである:「人間の発達が最も豊かに多様に行われることの、本質的かつ絶対的な重要性こそが、偉大な原理である。」もうひとつは、人間主義的あるいは利他主義的原理であり、経済の次元においては共産主義的アナーキズムによって翻訳されている。

だが、個人主義的原理と人間主義的原理が互いを否定することは、論理によっても、事実によっても明らかである。もし個人主義的原理が何か意味を持つとすれば、それは個人間の差異と不平等に賛同する要求であり、個人を他者と異ならせ、分離し、必要なら対立させるような諸性質を支持するものである。他方、人間主義は人類の同質化を目指す。ジッドの言葉を借りれば、その理想は「我々の同類our like」という表現を現実にすることにある。

事実、今日においてもアナーキズムの最も洞察力のある理論家たちのあいだでは、これら二つの原理の対立が明確になっており、この論理的かつ不可避の対立は、アナーキズムという政治的・社会的教義の分裂を引き起こさずにはいないだろう。

いずれにせよ、個人主義的原理と人間主義的原理とを調停しようとする者がどのような困難に直面しようとも、この二つの対立する敵対的原理は、少なくとも一点において交差する。それは、いずれも明確に楽観主義的であるという点である。フンボルトの原理は、それが人間の本性の本源的善性と、それの自由な開花の正当性を暗黙裡に肯定しているかぎりにおいて、楽観主義的である。それは、われわれの自然本能を糾弾するキリスト教的非難に対抗しているのであり、この点に関して『自由論』の翻訳者デュポン=ホワイトが霊魂主義的かつキリスト教的観点(肉体の罪の観念)から抱いた留保を理解することもできよう。

人間主義の原理もまた、それに劣らず楽観的である。実際のところ、人間主義とは、人間における普遍的なもの、すなわち人間性、そしてそれゆえに人間社会を神聖視すること以外の何ものでもない。以上から明らかなように、アナーキズムは個人に関して楽観的であるのみならず、社会に関してはそれ以上に楽観的である。アナーキズムは、個々の自由がそのままに放置された場合、それらが自然に調和し、自発的に自由な社会というアナーキズム的理想を実現するものと想定している。

こうしたキリスト教的観点とアナーキズム的観点という二つの対立的立場に対して、個人主義の態度はどうか? 個人主義とは、現実に生きられた人生と直接の感覚に根ざしたリアリストの哲学であり、これら二つの形而上学――すなわち、一方では原罪という前提から人間の本性を糾弾するキリスト教的形而上学、他方ではやはりア・プリオリに人間本性の本源的・本質的善性を肯定する合理主義的かつルソー的形而上学――の双方を退ける。個人主義は事実を前にして立つ。そしてその事実がわれわれに示すのは、互いに闘争する本能の束としての人間存在、そしてまた、やはり必然的に互いに闘争する個人たちの集合としての人間社会である。

その存在条件において、人間は闘争の法則に従属している。すなわち、自己内部の本能同士の闘争と、同類との外的闘争である。もし、人間存在におけるエゴイズムと闘争の普遍的かつ永続的性格を認めることがペシミズムを意味するのであれば、個人主義はペシミズムであると言わねばならない。だが、われわれはすぐさま付け加えねばならない。すなわち、個人主義のペシミズムは、事実に基づくペシミズムであり、経験的ペシミズム、いわばア・ポステリオリのペシミズムであり、教義の名においてア・プリオリに人間本性を糾弾する神学的ペシミズムとはまったく異質のものである。

さらに個人主義は、アナーキズムとも根本的に袂を分かつ。確かに、アナーキズムと同様、個人主義もまたフンボルトの原理を人間本性の完全な開花にとって必要かつ正常な傾向として一応は認める。だが同時に、それは、この傾向が決して充足されることはないという事実、すなわちわれわれの内的・外的な不調和ゆえにそれが常に挫かれるということを認識している。言い換えれば、個人主義は、個人と社会の調和的発展というものをユートピアと見なしているのである。

個人主義は、個人に関して悲観的であるが、社会に関してはなおさら悲観的である。人間は、その本能同士の内的闘争ゆえに、そもそも本質的に不調和である。しかしこの不調和は、社会状態によって一層悪化させられる。というのも、痛ましき逆説として、社会はわれわれの本能を抑圧すると同時に、それを苛立たせ、掻き乱すからである。

事実、個々の「生への意志」が接近することにより、そこから集団的な「生への意志」が形成される。この集団的意志は、即座に個人の生への意志を抑圧するものとなり、それをあらん限りの力で押さえつけ、その開花を妨げるのである。この意味において、社会状態はわれわれの本性の不調和を極限にまで押し進め、誇張し、最も貧しき形で露呈させるのである。ショーペンハウアーの見解に従えば、社会とは、まさにこの「生への意志」の最高度における表現である:つまり闘争、不満足、そして苦しみ。

アナーキズムと個人主義との対立からは、さらに他の対立が派生する。アナーキズムは進歩を信じる。個人主義は、生成や進歩を否定する、非歴史的とでも呼べる思考態度である。そして人間の「生への意志」を永遠の現在の中に見る。ショーペンハウアーと同様に、そして他の多くの点で彼に似ているように、シュティルナーもまた非歴史的精神である。彼もまた、新しく偉大なものが明日もたらされると期待するのは幻想だと考えている。あらゆる社会形態は、まさにそれが結晶化するという事実によって、個人を圧し潰す。

シュティルナーにとって、ユートピア的な明日や「終末に訪れる楽園」などは存在しない。あるのはエゴイストの「今日」だけである。シュティルナーの社会に対する態度は、ショーペンハウアーの自然と生に対するそれと同じである。ショーペンハウアーにとって生の否定は形而上学的であり、ある意味で霊的である(彼が自殺を非難するのは、この生の否定が物質的で具体的になされるためである)。同様に、シュティルナーの社会に対する反逆もまた、完全に精神的で内的な反逆であり、純粋に意思intentionと内なる意志willの問題である。それはバクーニンのように破壊の呼びかけではない。

社会に対してなされるのは、単なる不信の行為であり、受動的敵意、無関心と軽蔑的諦念の混合である。それは、個人が社会と戦うことではない。なぜなら社会のほうが常に強いからだ。したがって、社会には従わねばならない、犬のように。しかしシュティルナーは、従いながらも、慰めとして、圧倒的な知的軽蔑を保持している。これはほぼ、ヴィニーの自然と社会に対する態度と同じである。「怒りに痙攣することもなく、天を非難することもない静謐な絶望、それがまさに英知なのだ」。そしてまた、「沈黙こそが生に対する最上の批判であろう」。

アナーキズムは誇張された狂った理想主義である。個人主義は、ショーペンハウアーとシュティルナーに共通する一つの特徴に要約される:冷酷なリアリズム。あるドイツの著述家が言うところの、「生と社会の完全なる〈脱理想化〉(Entidealisierung)」に至るのだ。

「理想とはただのポーン(使い捨ての駒)にすぎない」とシュティルナーは言った。この観点からすれば、シュティルナーこそが最も純粋な意味での個人主義の代表者である。彼の冷徹な言葉は、ニーチェのそれのような燃え上がるような燃えるような熱や光ではなく、魂を震え上がらせる冷気をもって迫ってくる。ニーチェは悔い改めぬ、傲慢で暴力的な理想主義者のままだった。彼は「高次の人間性」を理想化する。シュティルナーは、自然と生の最も完全な脱理想化、「伝道の書」以来、最も徹底した幻滅の哲学を体現している。いかなる呵責もない、計り知れないほど悲観主義的なこの個人主義は、アナーキズムとは異なり、完全に反社会的である(アナーキズムが反社会的であるとしても、それはあくまで現存する社会に関してにすぎない)。

アナーキズムは、個人と国家のあいだに二律背反を認めるが、それは国家の廃絶によって解消されうると考えている。そして、個人と社会のあいだに本質的で解消不可能な対立があるとは考えていない。なぜならアナーキズムの目には、社会とは(スペンサーの言うような)自然発生的な成長であり、一方で国家とは人為的かつ権威的な制度であるからだ。だが、個人主義者の目から見ると、社会は国家以上に圧制的ですらある。なぜなら社会とは、あらゆる種類の社会的紐帯(世論、習俗、慣習、しきたり、相互監視、他人の行為に対する公然または非公然のスパイ活動、道徳的な称賛や非難など)の集合体にすぎないからだ。

このように理解される社会は、個人の生活の細部にまで深く、持続的に浸透してくる、小さくも大きくもある暴虐tyranny、避けがたく、止むことなく、うるさく、容赦ない暴虐の密集した織物である。そしてさらに言えば、こうした社会的暴虐と国家的暴虐は、仔細に観察すれば、結局は同じ根から生じていることがわかる。すなわち、自らの支配と威信を確立し維持しようとするカーストや階級の集団的利益である。世論や慣習というものは、消滅しつつある古い階級的規律の残滓であると同時に、新たな支配階級が形成する過程で持ち込む新しい社会的規律の萌芽でもある。このため、国家の強制と、世論や慣習による強制とのあいだには、程度の差があるだけなのである。

根本では、両者は同じ目的――集団にとって都合の良い道徳的同調主義を維持すること――を持ち、同じ手段――独立した者、従わぬ者を悩ませ排除すること――を用いている。違いがあるとすれば、それは、分散的制裁(世論と慣習)の方が、他の制裁よりも偽善的だということにすぎない。プルードンが言ったように、国家とは社会の鏡にすぎない。国家が圧政的なのは、社会が圧政的だからである。政府とは、トルストイの言葉によれば、「他人を搾取し、悪人と詐欺師を利する人間たちの集まり」である。もしこれが政府の実態であるなら、それはまた社会の実態でもある。国家と社会というこの両者のあいだには、一致がある。両者は同じものなのだ。群集精神、すなわち社会的精神は、個人にとって、国家的あるいは宗教的精神と同様に抑圧的である。そしてこのふたつが維持されるのは、まさに社会的精神によってなのだ。

なんと奇妙なことか! シュティルナー自身、社会と国家の関係に関しては、スペンサーやバクーニンと同じ誤りを共有しているように見える。彼は、個人の行為に対する国家の介入には抗議するが、社会の介入には抗議しないのだ。

「国家は、個人の前に立つとき、神聖なる後光を身にまとう。たとえば、国家は決闘に関する法律を作る。二人の人間が、ある事柄(それが何であれ)を決着させるために命を賭けることに合意したとしても、国家がそれを望まないがゆえに、それを実行することができない。彼らは法的追及と処罰の危険に晒されるのだ。自己決定の自由はどこへ行ったのか? だが、北アメリカのような土地では、状況はまったく異なる。そこでは、社会が決闘者たちに、その行為によっていくらか不都合な結果を味わわせることに決めている。たとえば、それまで享受していた信用を取り上げる、といった具合に。信用の拒否は万人の問題であり、社会が何らかの理由で誰かからそれを奪うことにしたとしても、当の本人は自由への侵害だと文句を言うことはできない。社会は単に自らの力を行使しただけなのだから。ここで語られている社会は、個人が自分の行動によって被る有害あるいは不快な結果にあえて晒されることを完全に自由にし、意志の自由をまったく損なわない。一方で国家は正反対のことをする。国家は個人の意志の正統性を一切認めず、ただ国家自身の意志、国家意志のみを正統と認めるのだ」

奇妙な理屈だ。法律が私を攻撃しないとして、社会に放棄されることで私は本当に自由になるのか? こうした理屈は、道徳的偏狭によって感染した世論による、個人へのあらゆる攻撃を正当化してしまうだろう。アングロサクソン諸国における個人の自由という伝説は、この理屈の上に築かれているのだ。

シュティルナー自身、この理屈の欠陥を感じ取っており、少し後で彼は有名な「社会」と「結社(association)」の区別にたどり着く。一方(社会)では、個人は手段として扱われ、他方(結社)では、個人は自己を目的として扱い、結社を個人的な力と享楽のための手段とする。

「君は結社に全力を捧げ、自らの富を差し出し、自己の存在をそこに示す。社会においては、君も君の活動もただ利用されるだけだ。前者では、君はエゴイストとして生きる。後者では、人間として、つまり宗教的に生きる。君は主のぶどう園で働く。君は社会に、自分が持っているすべてのものを負っている。君はその債務者であり、社会的義務に苦しめられる。一方、結社に対して君は何も負っていない。それは君に奉仕し、もはや何の利益も得られなくなった時には、君は何の呵責もなくそこから立ち去る…」

「もし社会が君よりも大きなものであるなら、君はそれを自分の前に置き、己をそのしもべとするだろう。結社は君の道具であり、武器であり、それは君の自然な力を研ぎ澄まし、倍加させる。結社は君のために、君によってのみ存在する。それに対して、社会は君を自らの所有物とみなし、君なしでも存在し得る。要するに、社会は神聖物であり、結社は君の財産である。社会は君を利用し、君は結社を利用する。」

だが、これほど空虚な区別があるだろうか! 社会と結社の境界はどこに定めればよいのか? シュティルナー自身が認めたように、結社はしばしば社会へと結晶化していくのではないか?

どのように考えても、アナーキズムは社会と個人の自由という二つの対立する概念を調停できない。アナーキズムが夢見る自由社会とは、それ自体が矛盾をはらんでいる。それは「木でできた鋼鉄」であり、「端のない棒」である。ニーチェはアナキストたちについてこう書いた:「我々はすでにすべての壁と机の上に、彼らの未来の標語を読むことができる。『自由社会』と。自由社会? たしかに。しかし諸君もご存じだろうが、それを何で建てるつもりか:鉄でできた木材で……」

個人主義のほうが、アナーキズムよりも明快で誠実である。それは国家、社会、結社をすべて同列に置き、それらすべてを拒絶し、可能な限りそれらを投げ捨てる。「すべて結社は、修道院と同じ欠陥を持っている」とヴィニーは言った。

反社会的であるという点で、個人主義は公然と非道徳的である。とはいえ、これは絶対的に真であるわけではない。ヴィニーにおける悲観主義的個人主義では、厳格で純粋であり、道徳的で高慢なストア主義と和解している。とはいえ、ヴィニーの中にも非道徳的要素は残る。つまり、社会を理想から引きずり下ろし、社会と道徳という二つの語を分離し対立させる傾向、そして社会を臆病、愚鈍、偽善の宿命的な産出装置とみなす傾向である。

「『サン=マール』、『ステロ』、そして『軍人の隷属と偉大』(いずれもヴィニーの作品)は幻滅についての一種の叙事詩の詩章である。しかし私が破壊しようとするのは、社会的なもの、虚偽のものだけである。私が踏みにじろうとするのは、幻想だけである。私はこの廃墟、この塵芥の上に、熱狂、愛、名誉の聖なる美を打ち建てるつもりだ」

言うまでもなく、シュティルナーやスタンダールにおいては、個人主義はなんの躊躇も呵責もない非道徳主義である。アナーキズムは、粗雑な道徳主義に染まっている。アナーキズムの道徳は、義務も制裁もないとはいえ、それでもなお道徳である。核心において、それはキリスト教的道徳であり、ただキリスト教に含まれていた悲観主義的要素を除いたものというだけである。アナーキストは、調和に不可欠な諸徳が自然に花開くと想定している。強制の敵であるこの教義は、怠け者であっても共同の備蓄から物資を取る権利を認める。しかしながらアナーキストは、将来の都市では怠け者は稀になるか、そもそもまったく存在しなくなるだろうと確信している。

楽観主義的かつ理想主義的で、人間義と道徳主義に染まりきったアナーキズムは、一種の社会的ドグマチズムである。それはシュティルナーの語義における「大義cause」である。「大義」とは一つの事柄であり、「個人の魂の単純な態度」とはまったく異なる。「大義」とは、ある観念への共通の忠誠、共有された信念、それへの献身を前提とする。

だが、個人主義はそうではない。個人主義は反ドグマチズムであり、布教にもほとんど関心を示さない。喜んでシュティルナーの一句「私は自分の事柄を無の上に置いた(I have set my affair on nothing)」を標語とするだろう。

真の個人主義者は、自分の人生観や社会観を他者に伝えようとはしない。それが何の役に立とうか? Omne individuum inefabile.(すべて個は言葉にしがたし) 気質の多様性と、単一の規範が無益であることを確信しているがゆえに、彼はデイヴィッド・ソローの言葉を喜んで口にするだろう。

「私は、自分の生活様式をいかなる理由でも他人に採用してほしいとは思わない。というのも、他人がそれをやっと学んだころには、私はもう別の生き方を見つけているかもしれないし、世界にはできる限り多くの異なった人物がいてほしいからだ。だが私は、誰もが自分自身の道を見つけ、それを歩むことに最大限の注意を払ってほしいと思う。父親や母親や隣人の道ではなく。」

個人主義者は、個人主義に反発する気質の持ち主がいることを知っており、そうした者を説得するのは愚かだと心得ている。孤独と独立を愛する思索者、観想的で、内なる生の純粋な熟達者、たとえばヴィニーのような者にとっては、社会生活やその喧騒はなにか人工的で不自然であり、真に感じられる感情を排除するものに見える。

逆に、気質的にどうしても生と社会行動を求める者――混沌へと身を投げ込み、政治的・社会的熱意に突き動かされ、「理想」や「大義」という言葉を繰り返し唱え、新しく偉大なものを明日がもたらすと信じる者たち――こうした人々は、必然的に観想者を誤解し、軽蔑する。観想者は群衆の前でヴィニーの言う「鋤(すき)」を下ろすからである。

内なる生と社会行動とは、互いに排他的なものである。両者の魂は、互いに理解し合うようにはできていない。この対立の両極として、我々は併せて読むべきである。一極にはショーペンハウアーの「人生の知恵についての箴言(邦題「幸福について」)」――これは内向的で疑り深く、悲しみに満ちた個人主義の聖典である――あるいはアミエルの『内面生活の手記(邦題「アミエルの日記」)』、ヴィニーの『ある詩人の日記』を。その対極には、ブノワ・マロン、エリゼ・ルクリュ、クロポトキンを。これらを読めば、二種の魂のあいだに横たわる深淵が見えてくるだろう……。

 


 

 

ジョルジュ・パラント(Georges Palante, 1862–1925)はフランスの哲学者・社会評論家であり、個人主義と懐疑主義を基軸に独自の思想を展開した人物である。実存主義的傾向とニーチェ哲学の影響を強く受けつつも、過剰な理性主義や社会的コンフォーミズムに対して批判的な立場を堅持した。

人物集